南西部の虎口と空堀に架かる土橋
家康が東金での鷹狩のために御成街道の途中に築かせた休息のための御殿
所在地
千葉県千葉市若葉区御殿町2549
形状
御殿
現状・遺構等
現状:市指定史跡
遺構等:土塁、空堀、虎口、土橋、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2009/10/24
歴史等
御茶屋御殿は、徳川家康が佐倉城主・
土井利勝に命じて築かせたものである。
慶長18年(1613)に徳川家康は、翌年の正月の鷹狩りを千葉県の東金で行うことにした。その為に、船橋・東金間に道路を造ることになり、
土井利勝が近在96ヶ村の名主に命じて御成街道を造らせた。御成街道は、長さ約37km、道路の幅約5.5mの、ほぼ一直線の道路で、
現在も千葉市内にはその道路が使用されている。
そして、御成街道の起点である船橋には船橋御殿が、鷹狩りの地である東金には東金御殿が築かれた。その際に、
途中に将軍家の宿泊所兼休息所として築かれたのが、御茶屋御殿である。
寛文年間(1661~72)に、船橋御殿や東金御殿とともに取り壊されたと考えられている。
内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、
17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されている。
『「現地説明板」、「図説房総の城郭(千葉城郭研究会編)」参照』
現況・登城記・感想等
御茶屋御殿跡は、一辺110mほどの単郭方形の曲輪の周囲を堀と土塁が取り囲んでいる。
空堀の幅は約5m、深さは2~3mほどで薬研堀になっている。土塁は、内部から2~2.5mほどの高さで、きれいにその形をとどめている。
虎口は南北(正確には南西部と北東部)に2カ所あり、内部にはそれぞれ枡形土塁があったというが、現在では、
その部分の土塁は取り払われている。周りよりも僅かに盛り上っているのが、その痕跡のようだ。
土塁の草刈りをしていた方の話によると、今は史跡としてきれいに整備されているが、以前は畑として利用されていたそうで、当然、
枡形土塁も取り払われたわけだ。そして、登城時から気になっていた曲輪内の妙に軟らかい地面のわけも理解できた。
また、北東部虎口からは、佐倉方面へと向かう道があったそうだが、今では私有地のため雑木林(藪)になっている。
(2009/10/24訪れて)
ギャラリー
御殿跡への入口
御殿跡の南西200mほどのところに標柱と説明板がある。その前に広いスペースがあるので、
ここに車を置いて御殿跡へと向かう。
南西部の虎口と空堀に架かる土橋
御殿手前には空堀が掘られ、土橋を渡って御殿内へ入る。
南西部虎口手前の空堀
空堀の幅は約5m、深さは2~3mほどで薬研堀になっている。
南西部の枡形虎口の痕跡
虎口は南北(正確には南西部と北東部)に2カ所あり、内部にはそれぞれ枡形土塁があったというが、現在では、
その部分の土塁は取り払われている。周りよりも僅かに盛り上っている(草の生えているL字形)のが、その痕跡のようだ。
曲輪内へ
虎口から入ると、土塁に囲まれた一辺約110mもある広い単郭方形の曲輪広い曲輪へ出る。
南隅から見る曲輪
南隅土塁上から曲輪内を撮影したものである。土塁は、内部から2~2.5mほどの高さで、
きれいにその形をとどめている。
東側の空堀
南隅土塁上から撮影したもので、空堀が北へ真っ直ぐに延びている。
北東部虎口と土塁
北東部虎口の枡形土塁は、南西部虎口よりも枡形土塁跡の盛り上がりが少なく分かり辛い。
畑として利用されていたのだから、それも止むを得ないだろう。この虎口から、右(佐倉)へと道があったそうだが、今は雑木林(藪)
となり跡形もない。
北東部虎口と空堀に架かる土橋
土橋両側の空堀
西側の空堀
北角から撮影したものである。西(写真右)側には宅地等が建ち、この部分の空堀だけは雑草に覆われていた。