下総 寺崎城(佐倉市)

城址頂部西隅の物見台風の高み

千葉氏内紛後、宗家筋の胤将により築城も、その後、武蔵へ逃亡

所在地

千葉県佐倉市寺崎(密蔵院境内付近)
密蔵院:佐倉市寺崎2960、電話043-484-1395
【行き方】
県道136号線で佐倉へ東進し、羽鳥橋あたりに来ると右前方に小高い丘(右半分が木がなく禿げ上がっている)が見えてくる。 これが寺崎城址である。その丘を目指して細い路地を右折して入って行くと麓には「寺崎城跡登山口」と書かれた大きめの看板がある。 ここが登城道であるが、さらに密蔵院まで車一台だけが通れる細い道を登って行くことも出来る。

形状

平山城(丘城)

現状・遺構等

現状:密蔵院、神明神社等
遺構等:土塁?、物見台?、登城口案内板、石碑

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2010/01/11

歴史等

康正元年(1455)千葉氏16代千葉胤直のとき千葉氏に内紛がおこり、胤直は弟の馬加(まくわり)康胤及び同族原胤房に攻められ、 千葉城を棄てて志摩城に逃れたが、 二男胤宣は多胡城外で自刃、胤直もまた自刃した。
胤直の嫡子胤将は諸々に逃れたのち、寺崎城を築いて居城した。
胤将の子則胤のとき、馬加康胤は千葉氏宗家の乗っ取りを企て寺崎城を攻撃し、則胤は武蔵国に逃れた。
それより康胤は千葉氏の正統を名乗り本佐倉城を築き、 千葉氏の本城とし、嫡子胤持を寺崎城に置いたが、やがて胤持も本佐倉城に移ると寺崎城は廃城となった。
『現地石碑説明板より』

現況・登城記・感想等

佐倉市寺崎の水田地帯にこんもりとした山が見える。それが寺崎城址である。
今では密蔵院や神明神社の敷地となり、市指定文化財の薬師堂の周辺に土塁状の地形が残っているが、 これらが往時の遺構かどうかは判然としない。
また、薬師堂の西の方には物見台と思われる高みがあり、その上に祠と説明付きの城址石碑が建っている。
ここから見下ろす水田の光景は実に広々としていて、今更ながら関東平野が真っ平なことを実感させてくれる。
(2010/01/11登城して)

ギャラリー

城址遠景
県道136号線で佐倉へ東進し、羽鳥橋あたりに来ると右前方に小高い丘(右半分が木がなく禿げ上がっている) が見えてくる。

登城口
丘を目指して細い路地を右折して入って行くと麓には「寺崎城跡登山口」の案内板があるが、 私はさらに密蔵院まで車一台だけが通れる細い道を登って行った。正面の鳥居をくぐり、階段を登って行くと、物見台の下へ出る。

曲輪跡?
密蔵院境内付近が城址とはいうものの、かなり改変されているようで、 はっきり遺構であると断言できるようなものはない。この墓地辺りや右に見える密蔵院の削平地は、往時は曲輪であったのかな?

薬師堂
上写真の左の丘に登って行くと薬師堂へ出る。18世紀初頭のものと推定され、佐倉市指定文化財である。

土塁
薬師堂の右横(東)には高さ1mほどの土塁状のものがいっぱいあるが、遺構かどうか判然としない。

薬師堂周囲の土塁
薬師堂の右横(東)から背後にかけても、やはり高さ1mほどの土塁が取り囲んでいるが・・・?

力石
薬師堂の左(西)手前の小さな祠の横に「力石」なるものがあった。
「江戸時代、寺崎村は堀田藩の所領で非常に広い水田地帯を耕作する百姓集落であった。当時、米は一俵当り正味4斗で18貫目(67.5kg) の重量であった。年貢米は名主が力のある若者を雇い、肩に担いで納められた。従って、 米1俵を楽々と担げなければ一人前の百姓として認められない。そこで村長は薬師様の境内に若者を集め、縁日の奉納行事として、 俵担ぎ大会や相撲大会を催行して、若者の体力増強を奨励したが、米は貴重な主食でもあり、平素の鍛錬用として手頃の基礎石を「力石」 と名付け、薬師堂境内に備えた。若者達は、百姓仕事の合間をみてはこの場に集い競って力だめしに挑んだ。 重量は約100kgあると言われているが、大正・昭和の時代にこの石を肩まで担ぎ上げられた若者は僅か3人程度といわれる。現代人にとって、 ほど遠くなった昔日の素朴な青春を偲ぶ縁(よすが)になればと、「力石保存会有志」の寄進によって、 その昔土俵のあったこの場所に保存された。」(説明板より)

物見台?の上に建つ石碑と祠
西の方へ向かって行くと、物見台風の高み(TOP写真)があり、その上に祠と城址の由来が刻まれた城址碑が建っている。

物見台からの眺望
物見台から見下ろす水田の光景は実に広々としていて、今更ながら関東平野が真っ平なことを実感させてくれる。 これなら遥か遠くまで見渡すことができ、敵の動き(襲来)も早くから察知することが出来たことだろう。

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