下野 川崎城(矢板市)

本丸南側の巨大空堀。手前は竪堀となって山麓へ

宇都宮氏から入った塩谷朝業が築城、遺構が良好に残る大規模な城

別名

塩谷城、蝸牛城

所在地

栃木県矢板市川崎反町、川崎城跡公園
【アクセス】
県道30号と県道242号が交差する「木幡信号」を西へと県道242号へ入り、左手に*川崎小学校を過ぎ、更に700m程進むと、宮川の向こうに川崎城址の丘陵(川崎城跡の大きな看板がある)が見えてくる。山麓には*ともなりそば処・信生庵がある。公園に無料駐車場が完備されている。「駐車場」と「ともなりそば処・信生庵の裏」から登城できる。登城口から本丸までは5~6分ほど。
*川崎小学校:木幡1646番地、電話0287-43-0265
*ともなりそば処信生庵:川崎反町59-160、電話0287-43-4466

形状

平山城(標高230m、宮川との比高差47m)

現状・遺構等

【現状】 川崎城跡公園
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀(横堀・竪堀・堀切)、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2010/11/20

歴史等

川崎城は、正治・建仁年間(1199~1204)に、宇都宮業綱の次男・朝業が築城したと言われている。朝業は源義家の子孫とされる塩谷朝義の養子となって塩谷氏を名乗った。これは宇都宮氏の勢力が増大し、源姓塩谷氏を支配下に組み込み、北方の那須氏への構えとして築城したと思われる。
朝業は、兄・宇都宮頼綱(5代)の出家後、宇都宮氏を代表して鎌倉幕府に出仕し、3代将軍実朝に歌才を認められて近侍するが、1219年に実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されると、これを悲しんで出家して信生法師と号した。
その後も、川崎城には塩谷氏が累代居城した。
教綱のとき、宇都宮城にて謀殺され塩谷氏は断絶したが、宇都宮氏16代城主正綱の四男孝綱が塩谷氏を継いで再興した。
しかし、孝綱の跡を継いだ由綱(義孝)は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐・関東平定に背いて奥州に逃れているので、この頃に川崎城御前原城とともに廃城になったと思われる。
『とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)ほか参照』

現況・登城記・感想等

驚き桃の木山椒の木です(笑)。栃木県内にこれほど大規模で、遺構が良好に残り、しかも整備が進んだ山城跡があるとは思いませんでした!!!
川崎城は、標高230m、宮川との比高差47mの丘陵にあり、その城域は未調査地区を除いた丘陵南端部だけでも東西約150m、 南北約400mの広さがあるそうです。未調査地区にも曲輪があるので、城域は南北は1km近くにもなります。さらには現地説明板のように、主郭より南方約500mにある堀江山城を川崎城の一部として、その規模を南北1.5kmとする見方もあります。
さて、見どころの多い川崎城跡でも最大の見どころは、大規模な空堀(横堀・竪堀・堀切)でしょう。
中でも、本丸周囲をめぐる横堀と、それが竪堀となって山麓へ落ちていく光景は規模が大きいだけでなく、ビジュアル的にも素晴らしいし、三の丸と未調査地区の間の堀切も深くて見応え充分です。
また、東西約44m、南北約140mの三日月形をした広大な本丸跡からの眺望は素晴らしく、秋晴れの下、爽やかに広がり、ここで弁当を広げたくなります!?
(2010/11/20登城して)

ギャラリー

川崎城主郭部縄張略図(現地説明板より)
川崎城は、標高230m、宮川との比高差47mの丘陵にあり、その城域は未調査地区を除いた丘陵南端部だけでも東西約150m、南北約400mの広さがあるという。この略図は、未調査地区を除いています。
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川崎城跡遠景(宮川手前から撮影)
県道242号「木幡信号」を西へと700m程進むと、宮川の向こうに川崎城址の丘陵(写真左上の川崎城跡の大きな看板あります)が見えてきます。川に面した側は、かなりの急崖になっています。
川崎城遠景

山麓の公園
川崎城跡の東側山麓(宮川側)は、きれいな風情ある公園になっています。私は城跡南側の駐車場に気付かず、車でこの公園まで乗り入れて、ちょっとしたスペースに置いて登城しました。
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本丸
本丸は東西約44m、南北約140mと広々としています。東西両側は急崖となっています。本丸跡からの眺望は素晴らしく、秋晴れの下、爽やかに広がり、ここで弁当を広げたくなります!?
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本丸土塁
本丸の北西部にのみ高さ1~2m弱の土塁があり、その上に「川崎城跡」と刻まれた石碑が建てられています。
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本丸南側の段曲輪
南側斜面には3段の腰曲輪が設けられています。それぞれ切岸は3~4mほどですが、ほぼ垂直に削崖されています。
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本丸南側の空堀(左側が本丸)
この本丸南側の空堀とその空堀がさらに延びて山麓へと落ちて行く竪堀(1つ下の写真)が当城跡の最大の見どころでしょう。大規模なだけでなく、ビジュアル的にも素晴らしく、すっかり魅入られてしまいました。
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竪堀 ~クリックにて拡大画面に~
上写真の空堀が竪堀となって城の東側を流れる宮川の方へと落ちていっている光景は見事です!
写真でも、宮川の水と矢板の町並みが僅かながらも見えます。

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本丸北西から北側にかけての空堀
この辺りの空堀もなかなかかっこいい(^-^)。 幅10m、主郭側の深さは6~7mほどあります。空堀の右上が本丸で、左上が二の丸です。
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本丸西側の二の丸(上の段)
二の丸は、本丸の西側から北側を囲郭するように配置され、上下2段からなります。この写真は、本丸から空堀越しに、本丸西側の二の丸上の段を撮ったもので、二の丸は写真右奥へと周っています。
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本丸北側の二の丸(下の段)と未調査地区
本丸北側から撮ったもので、すぐ下が本丸・二の丸間の空堀で、その向こうが二の丸(下の段)。さらに、その向こうに三の丸がある、その背後遠くに見える山が未調査地区です。
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二の丸から三の丸を見下ろす
二の丸の北には、堀切を挟んで三の丸がありますが、ほとんど藪ですが、勿論、堀切へ降りてから突入!
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二の丸・三の丸間の堀切(二ノ堀)
左上が二の丸、右上が三の丸です。この堀切も、かなりのものですが、本丸周囲の空堀があまりにも見事なので、大したものに見えません!?
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三の丸
三の丸は、ほとんど藪ですが、踏まれて出来た道があったので、未調査地区へ向かいました。
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三の丸東側の段曲輪
三の丸の東側は、藪になってはいるものの、帯曲輪状の削平地があり、さらには2段の腰曲輪状の削平地が確認できます。こちらにも曲輪があったようです。
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三の丸北側の堀切(三ノ堀)
三の丸と未調査地区との間は、非常に深くて規模の大きい堀切で断ち切られています。即ち、ここまでの主郭部と未調査地区とは一城別郭式の城郭と言えるのでしょう。未調査地区は、あまりの藪で突入するのは断念(/。ヽ)。
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