本丸西側の空堀に架かる土橋
那須氏の対塩谷氏の前線基地、名君・資重が兄の妬みで退去した城
所在地
栃木県矢板市沢、沢観音寺の裏山
沢観音寺:矢板市沢393、電話0287-44-0548
【登城口】
沢観音寺の右手(金色の観音像の後ろ)から登城道がある(造られたのは最近のようで、以前は東200mほどにある「湯泉神社」の脇から登ったようだ)。尚、沢観音寺の駐車場を拝借した。
形状
平山城(比高約40m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、土橋、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/11/20
歴史等
沢村城は文治3年(1187)那須資隆の七男満隆(那須与一宗隆の兄)が沢村の地を分知され、沢村氏を名乗り、箒川に面した段丘上に城を築いたといわれる。
沢村城の南方2km余に資隆が築いた稗田城(矢板市豊田)があり、沢村城と連携して、那須氏の対塩谷氏の前線基地となり、当地をめぐり那須・塩谷両氏の攻防が繰り返された。
沢村氏は累代を経て、築城の約230年後の応永21年(1414)頃に那須氏の本家福原城から資重が沢村氏8代目を継いだ。資重は、民を愛しみ大いに名声を上げた。
ところが、福原城主の兄・那須資之は弟の資重の人望が篤いことを妬んで、夫人の父・犬懸上杉禅秀が「小国那須を上下に分けるいわれなし、資重を滅ぼし一つに領し給え」とそそのかし、角田氏・大田原氏・佐久山氏・稲沢氏・河田氏等を集め、「驕る資重を追討すべし」ということになった。
資重は、兄弟相争うことの非を悟り、千本氏・森田氏等、那須南の荘の住人の意見を入れ、いったん興野城(那須烏山市興野)に入り、のち稲積城(那須烏山市下境)を修復して移り、さらに応永25年(1418)烏山城へ移った。
資之は、孫・須藤五郎を沢村城へ入れ、沢村氏を名乗らせた。
尚、沢村城の最終的な廃城の時期等は不明だという。
『「現地(城跡山麓の湯泉神社)説明板」、「とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
沢村城跡は、本丸と二の丸の周囲を中心に、城域の各所に多くの空堀が確認できる。
中でも、本丸北側の狭い曲輪とそのさらに北側の曲輪を断ち切る堀切は規模も大きく見応え充分だ。
また、沢観音寺から見上げると、こんもりした何の変哲も無い丘に見えるが、本丸から城の北東を流れる箒川を見下ろすと、断崖絶壁の上にあることがよく分かる。少なくとも、こちらから攻め上ってくることは不可能であろう(笑)。
このように見どころの多い城跡であるが、もう少し整備がされていたら有難いが・・・。
それでも、沢観音寺から城跡内への道が整備され、本丸内へ何とか入って行けるだけでもましな方かも!?
(2010/11/20登城して)
*荒れ山について
戦後、日本中の至る所に杉を植え、間伐は勿論、枝打ちもされずに放りっ放しになって枝が伸び放題で、地面に陽が当らず、新しい草木も生えず、死の山と化している杉山が多い。今まで登城した城跡にも、こんな荒れ山に多く出会ったが、この沢村城跡も、そこまでひどくはないが、荒れ果てた杉山の感は否めないのが残念だった。
ギャラリー
沢観音寺駐車場にて
沢村城へ登城するには、沢観音寺とその約200m東に鎮座する湯泉神社から登城することが出来る。いずれにしても、車は、沢観音寺の駐車場を拝借することになる。駐車場に沢村五郎(資重)を称える石碑が立っている。裏側に、沢村氏と城に関する簡単な説明が記されている。奥には金色の観音像が見える。その背後の城跡は、ここから見ると何の変哲も無い低い丘にしか見えないが、中には、素晴らしい遺構がいっぱい(^-^)
「沢村城址 鷺山庭」の碑
金色の観音像の前には塚があり、その上に「沢村城址 鷺山庭」と刻まれた碑が立っている。
沢観音寺
沢村城山麓(城域内)にある沢観音寺は、補陀落山千手院と号し、開山時期は不詳であるが、天長2年(825)とか延喜年間(901-923)と言われている。もとは沢地内の弾正にあったが、永正年間(1504-21)那須資房により城域内に移され、沢村城主代々の菩提所になったと伝えられている。本堂手前に「沢村城跡」と書かれた板が置かれている。
【沢観音寺からの登城口】
サイト等のほとんどが、登城口を湯泉神社からとしており、以前は、こちらからは登城出来なかったようだが、金色の観音像後ろに新しく登城道が開けた。私も最初、湯泉神社の背後へ廻って入山したが、今では、こちらの方が道が整備されている。
堀底道
上写真の登城道を入って行くと、堀底道となる。この道を真っ直ぐ進むと、湯泉神社裏の空堀へと出る。本丸へは、途中から左へ曲がって行く。
本丸西側の曲輪への虎口
上写真の堀底道を途中から左へ入り、かなりの藪ながらも曲輪跡と思われる平坦地を左手に見ながら進むとこの虎口へと出る。
本丸への土橋
上写真の虎口を入ると、前方に空堀が見え、その右の方に土橋が見える。TOP写真の土橋と同じ土橋である。
空堀
土橋の両側は当然空堀になっており、結構大規模だが、写真にするとこの通り、残念ながらただの藪(苦笑)
本丸虎口
本丸の西側に虎口が開いている。写真奥は、本丸東側の土塁。
本丸
本丸北側から見た本丸で、左(東)側にだけ土塁がある。左(東)側は、断崖絶壁で土塁など必要ないような気もするが・・・?
本丸土塁
一応、本丸土塁も撮ってみました。
北東下は断崖絶壁
箒川河岸になる北東部は断崖絶壁だ。こちらは比高差も約40mほどあるという。
本丸北側の空堀
この本丸北側の空堀は、本丸西側から周ってきている空堀で、かなり深くて規模も大きいが、写真では全く分からないですよねえ!?ここから引き返そうかとも思ったけど、やっぱり堀底まで降りて行くことにした(笑)。
本丸北東部の堀底から本丸を仰ぎ見る
降りてみて、本丸を下から見上げると、この空堀が、かなりの深さであることを改めて思い知った(笑)。中央の木に少し隠れているが、矢印(→)のところにいる家内を見てもらえば、本丸の高さというか空堀の深さが分かって戴けると思います。
さらに、その北側の堀切を
こうなると、さらに北側の土塁に登ってみたくなるものだ(苦笑)。すると、もっと大規模で深い堀切を確認し、感激!! 写真では、その迫力が伝わらないのが残念だ。
堀底の向こうにも曲輪があるが、あまりに強烈な藪で、堀底へ降りるのも含めギブアップ!!!
【湯泉神社からの登城口】
最初は、沢観音寺の駐車場に車を置いて、その約200m東にある湯泉神社から登城した。神社への道の入口に小さな石碑があった。写真では、それほど小さく見えないが、高させいぜい30cm~40cmほどである。また、神社の土台の石積みに「沢村城築城800年」の説明が記された石板がはめ込まれていた。
神社裏の空堀
神社手前を右へ廻り、山へ入って行くと、いきなり空堀に出会う。この空堀は、二の丸西側の空堀のようだ。この空堀に沿って進んで行くと、沢観音寺から登城する堀底道へと出る。