下野 足利氏館(足利市)

足利氏館跡の鎫阿寺楼門と太鼓橋

八幡太郎義家の子・義国と義国の第二子・義康二代にわたって造営された足利氏の居館跡

所在地

栃木県足利市家富町2220、鎫阿寺

形状

現状・遺構

【現状】鎫阿寺(ばんなじ)、国指定史跡
【遺構等】曲輪、土塁、水堀、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:大正11年3月8日
指定理由:中世、北関東地方に営まれた居館で、当時の地方豪族の状態を知るうえで重要な遺跡。
面積:約4万1,300㎡
資料館:なし

満足度

★★★☆☆

訪城日

2006/05/14

歴史等史等

平安時代末期、八幡太郎義家の子・源義国(足利・新田両家の祖)及び義国の第二子・義康(初めて足利氏を称す)の2代にわたって造営された足利氏の居館跡である。大正11年、「足利氏宅跡」として国指定の特別史蹟となった。
館跡は「鎫阿寺(ばんなじ)」になっている。鎫阿寺は、義康の第三子・足利義兼により、建久7年((1196)開創された真言宗の古刹である。義兼は源頼朝の従弟で、室は北條時政の娘で政子の妹・時子である。また、義兼七世の孫が足利尊氏である。
尚、隣地にある足利学校の創建も、鎌倉時代の初期、義兼が一族の学問所として興したといわれている(奈良時代の国学の遺制説や、平安時代の小野篁説などもある)。
『鎫阿寺パンフレット参照』

現況・登城記・感想等

足利氏館跡は足利学校跡のすぐ隣にあり、現在は「鎫阿寺(ばんなじ)」の境内となり堂塔伽藍が建ち並んでいる。
周囲を土塁と水堀で囲まれた典型的な方形館で、橋と門が東西南北の四方にあり、中でも南に位置する太鼓橋と山門が立派である。
尚、現在は単郭式の館跡となっているが、往時は堀の外側に外郭を設けた方5町ほどの複郭式であったのではないかと推定されているそうだ。
(2006/05/14訪問して)

ギャラリー

足利氏館(鎫阿寺)絵図 
足利氏館跡は、現在、鑁阿寺の境内となり、周囲を土塁と水堀で囲まれた不整方形を呈した典型的な単郭式の方形館である。
土塁の高さは約3m、基底幅は8~9mあり、各辺の長さは東辺約146m、西辺約177m、南辺約189m、北辺約198mで、堀を含めた各辺の長さは、東辺約180m、西辺約208m、南辺約215m、北辺約220mである。
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館周囲をめぐる土塁と水堀
足利氏宅は典型的な方形館で、周りを土塁と水堀(幅約4m)が囲んでいる。 
(館南側の土塁と水堀)
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(館東側の土塁と水堀)
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楼門と反橋(栃木県指定文化財)
門は東西南北の4箇所にあり、楼門は、仁王門または山門ともいい、南に位置する。建久7年(1196)、開基・足利義兼の創建といわれるが、室町時代、兵火に会い、現在の建物は永禄7年(1564) 足利幕府13代将軍足利義輝の再建したものである。
構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺で、両側の仁王尊像はこの建物より古く、鎌倉時代運慶の作といわれている。
反橋は、俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。(説明板より) 
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反橋(太鼓橋)を正面から
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東門(栃木県指定文化財)
開基・足利義兼の創建といわれるが、永享4年(1432)公文所奉行の再修になる。本瓦葺、切妻造り、四脚門で形状は簡古、手法雅朴であり鎌倉時代の武家造りの剛健な風格がしのばれる。正和年間(1310年代)の当山伽藍配置図にも東西の両門が描かれている。昭和32年、国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。(説明板より)
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西門(栃木県指定文化財)
本瓦葺、切妻造り、四脚門で、開基・足利義兼の創建といわれるが永享4年(1432)公文所奉行の再修になる。形状は簡古、手法雅朴であり、正に鎌倉時代の武家造りの剛健な風格がしのばれる。昭和32年、国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。(説明板より)
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北門(薬医門)
開基・足利義兼の子・義氏は父の建てた鑁阿寺維持のため堀の外に12の支院(塔中12坊)を鎌倉時代に建て、その筆頭(塔頭)を千手院とした。この門は千手院(現在の足利幼稚園)の門で弘化2年、39世学頭来昌上人の再建である。明治4年千手院を除いて塔中11支院を明治政府に上地後、大正7年42世学頭・忍空上人はこの地にこの門を移建した。薬医門としては規模雄大にして、典型的な江戸末期の形式を有している。昭和62年、足利市重要文化財の指定を受けた。(説明板より)
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大御堂・本堂(国宝)
鎌倉時代の建久7年(1196)に足利氏館内に開基・足利義兼が持仏堂を設けたものである。その後足利義氏が方5間の大堂を建立したが、弘安10年(1287)の火災で失った。
現在の本堂は、室町幕府初代将軍足利尊氏の父・貞氏が正安元年(1299)に再建したもので、当時最新の建築様式であった禅宗様建築をいち早く取り入れ、外来の新技術の受容の在り方をよく示している。正安元年の建築後、応永14年(1407)~永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組みを強化して本瓦葺に改められた。
明治41年国宝に指定された。戦後は、法令の改正により国の重要文化財となったが、平成25年(2013)に再び国宝に指定された。(説明板、アヒキペディア他参照) 
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鐘楼(国指定重要文化財)
建久7年(1196)開基・足利義兼の建立。建築様式は形状簡古・手法雅朴で、鎌倉時代の和様・唐様折衷の代表的禅宗様式で桁行3間、梁間2間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺である。明治41年、国宝建造物に指定さ。大正5年、解体修理実施。昭和266年、国重要文化財に指定。昭和36年、半解体修理実施。梵鐘は元禄時代の再鋳であるが、戦時の供出は歴史的史料としてまぬかれた。(説明板より)
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多宝塔・塔婆(栃木県指定文化財)
開基・足利義兼の創建と伝えられているが、現在のは元禄5年(1692)、徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院の再建と伝えられていた。しかし、相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629)銘のものが発見され塔の再建年代が遡ることが判明した。徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したので、徳川氏は祖先発祥の地としてこの宝塔を祖先の菩提供養のため再建寄進した。本尊は金剛界大日如来で、奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍の位牌を祀っている。 平成7・8年に半解体修理を実施した。(説明板より)
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経堂(国指定重要文化財)
当山の開基・足利義兼が妻の供養のために一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建したといわれるが、現在の建物は応永14年(1407)関東管領・足利満兼により再建された。足利家は鎌倉・室町時代に盛んに一切経会を営んだことが当山古文書(国重文)にみられる。堂内に8角の輪蔵(経棚)があり一切経2千余巻を蔵する。 昭和11・12年文部技師阪谷良之進の指導の下、解体修理を実施した。昭和59年国重要文化財に指定された。(説明板他より)
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御霊屋(栃木県指定文化財)
足利大権現と称し、俗に赤御堂ともいう。正和年間(1312~)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川11代将軍家斉の寄進によって再建された。本殿に源氏の祖を祀り、拝殿に足利15代将軍像を祀る。(説明板より)
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大酉堂・おとりさま
元来、足利尊氏を祀るお堂として室町時代に建立された。当山に残る寛政2年及び明治5年の伽藍配置図には足利尊氏公霊屋として現在地に記載されている。明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観が抬頭し、41世忍禅上人は甲冑姿の尊氏の木像を本坊に移し、当山伝来の大酉大権現を本尊とした。大酉大権現は俗に「おとり様」といい、古来より武神として武門の信仰が篤く、殊に東国では近世より商売繁盛、福の神として信仰されている。昭和61年、解体修理をした。(説明板より)
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大銀杏(天然記念物)
開基・足利義兼の御手植えと称しているが、鎌倉時代末期の正和年間(1310)の当山の古地図には載っていない。故三好学博士の鑑定によれば樹齢550年といわれる。江戸時代には既に大木となり樹下に於いて大日如来のお堂を前にして青年男女のお見合いが行われ縁結びの御神木ともいわれている。目通りの周囲9m、高さ約30mあり、往古より避雷針の役目を果たし、諸堂の災厄を守護した。(説明板より)
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【足利学校】
すぐ東南脇には足利学校がある。足利学校はよく整備されていて、中世の居館的な風情をかもし出している。堀や土塁がきれいに復元されている。当写真は歩道橋の上から撮影したもので、まるで箱庭のようだが、方形館の雰囲気がよく出ている。100m四方ほどの敷地内には、孔子廟、方丈、庫裏、衆寮、書院などが配置されている。足利学校も鎌倉時代の初期、義兼が一族の学問所として興したといわれている(奈良時代の国学の遺制説や、平安時代の小野篁説などもある)。
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