城址である益子小学校と山林
宇都宮氏の臣で紀党と呼ばれ活躍した紀姓益子氏の拠点か?
別名
根古屋城、益子古館
所在地
栃木県益子町益子字館八幡(益子小学校及びその北側一帯)
益子小学校:益子町大字益子4665、電話0285-72-2014
駐車場:小学校の南側の空地を拝借した
形状
丘城
現状・遺構等
現状:益子小学校、山林、個人宅
遺構等:曲輪、土塁、空堀
満足度
?????
訪城日
2009/02/19
歴史等
益子城の築城時期や築城者については諸説があって明らかではないが、益子氏の居城として鎌倉時代に築かれたことは確かであろう。
益子城は、益子地内の益子古城や西明寺城との関係については不明な点が多い。
これまでの説によれば、益子氏が益子古城
(御城山城)より移住後、長期にわたって紀党として武勇を誇った拠点であったところとされる。
一説によれば、益子氏は貞治2年(1363)、貞正のとき、鎌倉公方・足利基氏(尊氏の四男)と武蔵国で戦って討死し、その子・
安正が応安7年(1374)に亡くなると、嫡子・十郎丸が幼少であったので、市花輪館(市貝町)
より一族の勝直が城主として迎えられたといい、また一説では、この時に益子城が築かれたともいう。
廃城は、主家・宇都宮氏との抗争によって益子氏が滅亡した天正17年(1589)である。
『とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)』
現況・登城記・感想等
益子城址は、益子小学校の敷地・山林・個人宅となっているということで、益子小学校を目指して行った。
中でも、小学校の北側のH氏宅地には空堀や土塁、方形の郭跡がはっきり残っているということで、見学をお願いしようかと思ったが、
夕方になり申し訳ないので遠慮した。
また、小学校の北東に延びる丘陵上には段郭が残っているとのことであったが、入口(山林の南東部にそれらしき所があったが、
夕方で薄暗くなり入って行くのを止めた)が分からず、これまた断念。
ただ、小学校の北側の切岸や、H氏宅の南側の空堀は道路側からも確認され城址らしい雰囲気もあった。
益子古城や西明寺城にはきちんとした説明板があるのに、ここは全く無視されているかのように、何もないのは何故?
(2009/02/19訪れて)
ギャラリー
まずは益子小学校へ
正面の坂の上が益子小学校で、城址で最も高所にあり、本郭であったと思われる。写真左側が北東部の山林で、
段郭が残っているらしい。
切岸
小学校の北側から北東部にかけては台地が削られた切岸が確認でき、城址の雰囲気がある。
H氏宅南側の土塁と空堀跡?
H氏宅南側には土塁があり、その外側に空堀らしい光景がある。奥の森には段郭が残っているようだが、
こちら側からは入って行けそうにない。
H氏周囲の土塁
㊧H氏宅への入口で、南(右)側に高い土塁が。㊨H氏宅の北側の土塁を撮ったつもりだが、
ひょっとするとこの土塁の南(右)に空堀があり、そのさらに右側に土塁があるのかもしれない。