復元された土橋門
徳川綱吉が将軍になる前に在城した城
別名
尾曳城(おびきじょう)
所在地
群馬県館林市城町
形状
平城
現状・遺構等
現状;市街地(公園、市役所、文化会館他)
遺構等:土橋門(復元)、曲輪、土塁、井戸、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/10/09
歴史等
館林城は、「城沼じょうぬま」を自然の要害ようがいとした平城で、別名を「尾曳城」という。
その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、
これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
館林城の築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに、「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、
「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。
現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林
(館林)城」を攻略したという記録である。
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」
などが館林城を支配するようになった。
天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は、
利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が5代将軍になってからは、
将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家(榊原、
松平大給、徳川、松平越智、太田、井上、秋元)の居城として栄えた。
城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、
三の丸には土橋門が復元されている。
土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。この土橋門は、
昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により3基の門の基礎と2基の井戸が発見されている。また、
門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居」
と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
館林城は、ほとんどが公園や市役所や文化会館等にになってしまっているが、三の丸に復元された土橋門や城壁、
また土塁が往時の風情を僅かに偲ばせてくれる。本丸跡は芝生の公園になっており、相当な広さであり、土塁も一部残っている。
(2006/10/09登城して)
ギャラリー
千貫門跡の石碑
千貫門は館林城の牙城部 三の丸の北面中央に位置し 城の正門である大手門と同様 城内にある重要な門の一つであった。
その形態は渡櫓門で 三の丸北面部の土橋門(通用門)に対して武士の正門とされていた。
本丸跡
相当な広さである。写真中央から右へ土塁が残る。奥の建物は向井千秋記念子ども科学館。
㊧本丸土塁、㊨本丸土塁横の井戸
㊧碑と三の丸土塁、㊨石碑(文化会館入口)
土橋門(復元)
城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用された。
この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したものである。
土橋門(内側から)
右側の土塁は、「蔀土居(しとみどい)」と呼ばれ、
開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構である。
井戸
㊧三の丸土塁(土橋門横)を外側から、㊨三の丸土塁(土橋門横)を内側から