上野 赤堀城(伊勢崎市)

本丸跡

藤原秀郷を祖とする赤堀氏の居城

別名

今井城

所在地

群馬県伊勢崎市赤堀今井町2丁目1414
【アクセス】
宝珠寺の東200~300mが本丸跡で、宝珠寺の駐車場を拝借した。
宝珠寺:赤堀今井町2丁目1344-1
尚、宝珠寺の墓地には藤原秀郷の子孫が秀郷を供養するために建立したものと伝えられる五輪の塔がある。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】畑地、宅地
【遺構等】曲輪、土塁、堀、碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2006/10/09

歴史等

赤堀城は別名今井城とも言われ、粕川とその支流の鏑木川との自然地形を利用した箇所に築かれ、東西170m、南北350mの範囲を占める。
一辺約80mの本丸を中心とした部分には、土居、堀、戸口があり、他にも二の丸、城域の外側には一小郭があったと考えられ、赤城山南麓に特徴的な本丸を囲郭式とした並郭城である。
赤堀城は藤原秀郷の末裔とされる赤堀氏の居城で、赤堀下野守親綱の時に由良氏の幕下となり、その子影秀までは赤堀城に在城した。その後、後北条氏幕下の小菅氏が在城したが、天正18年後北条氏滅亡と共に赤堀城も廃城となった。
赤堀城跡は赤堀氏の活動の記録は少なく、不明な点が多い。そのため、赤堀城跡は当時の赤堀氏の動向を知る重要な文化財である。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

子供の頃、亡くなった親父から伝え聞くところによると、我が家の先祖はその昔(室町時代末期)に、この赤堀から時の殿さんに付いて羽津城(四日市市、赤堀三家のひとつ)にやって来たとのことである。
今日は、その祖先の地にやって来たということもあり、初めての所であるにも関わらず、何となく懐かしいような気がした?
本丸跡は一面が畑地になってしまってはいるものの、想像していたよりも広く、その周囲を取り囲むかなり高い土塁や土塁外側の空堀も一部が良好に残っているのが嬉しかった。
すごい史跡とは言えないかもしれないが、私にとっては特別の所であり感慨深かった(*^_^*)。
(2006/10/09登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地説明板より)
赤堀城は粕川とその支流の鏑木川に挟まれた自然地形を利用して築かれ、東西170m、 南北350mの規模を誇っていたという。
一辺約80mの本丸には、土居、堀、虎口があり、他にも二の丸、城域の外側には一小郭があったと考えられ、 本丸を囲郭式とした並郭城であった。

DSC03740

本丸跡
本丸跡はきれいに耕作された畑地になっている。本丸周囲を取り囲む土塁はかなり良好に残っている。写真奥は本丸北側の土塁で、北東部(写真ほぼ中央)に喰い違い虎口がある。
DSC03738

本丸北側の土塁(喰い違い虎口の西側部分)
土塁は郭内から3~4mほどあり、その向こう側には堀が掘られている。
DSC03722

本丸北側の土塁(喰い違い虎口の東側部分)
DSC03723

喰い違い虎口脇に設置された城址碑と説明板
食い違い虎口脇には城址碑と縄張略図付きの説明板が設置されている。その隣には城主関連のものなのかか、古い五輪塔が並んでいる。
DSC03729

本丸北側土塁外側の堀
強烈な藪になっているが幅10mはあろうかという大規模なものである。これだけはっきり残っているのは嬉しかったが、とても突入できるような生半可な藪ではないのが残念(;>_<;)。
DSC03731

本丸南側(写真左側)と西側(写真右奥)の土塁
写真奥の西側土塁の向こう側には天然の堀・粕川が流れている。
DSC03721

天然の堀、粕川(赤堀城の西側に位置)
DSC03719

赤堀氏の祖藤原秀郷供養の五輪の塔
城址の西200~300mほどにある宝珠寺の墓地には藤原秀郷の子孫が秀郷を供養するために建立したものと伝えられる五輪の塔があるが、藤原秀郷の子孫が秀郷を供養するために建立したものと伝えられる。石材は凝灰岩が使用され、地輪は方形に近く、 水輪は球形を呈することから、鎌倉時代の所産と推定される。
またこの五輪の塔には、昔白蛇がいたが、火輪が落ちて割れた後、白蛇がいなくなってしまった。しかし、 五輪の塔の苔を煎じて飲めば熱病は完治し、祈願すれば成就する霊験あらたかな五輪の塔として宝珠寺に伝えられている。
DSC03716

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント