上野 大館館(太田市)

畑の真ん中にある祠の前に建つ模擬冠木門と説明板

新田義重の4世家氏が居住し大館氏の祖となる

所在地

群馬県太田市(旧尾島町)大舘町
東楊寺(大館町1492、TEL0276-52-0619)の北200ほどの畑の中

形状

現状・遺構等

現状:田園
遺構等:模擬冠木門、標柱、説明板

満足度

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訪城日

2008/02/28

歴史等

「おおたち」の地名の初見は、仁安3年(1168)新田義重置文(国重文・長楽寺所蔵)であり、義重がその子、「らいおうごぜん (徳川義季)」とその母に、所領を譲り渡す約束をした文書である。それによると、おおたちは空閑の郷(新しく開墾された土地)で、 他の18郷とともに、らいおうごぜんやその母に譲渡される予定であったが、その後の事情で新田宗家に伝えられることになったものと思われる。
義重4世の孫、家氏がここに住んで大館氏の祖となった。
館跡は耕地整理などによって、その遺構は失われたが、古くから竈(かま)跡であったと伝えられる。この地を中心に、御堀、御蔵、鍛冶屋、 馬場などの小字名が残り、往時を偲ばせる。
家氏の子宗氏、その子幸氏、氏明は新田義貞に従い活躍した。太平記によれば、 生品明神での挙兵にあたり義貞に従軍した一族の筆頭は大館宗氏父子であり、宗氏は鎌倉攻略に際し、極楽寺坂に向かった寄手の大将として奮戦、 突破口を開いたが、そこで惜しくも戦死を遂げた。
その後、各地に転戦した大館一族の中にあって、氏明は吉野に御所を定めた後醍醐天皇により伊予国守護に任じられ、脇屋義助(新田義貞の実弟) とともに四国全土を南朝の手に統一する働きをみせたが、義助は病没、氏明も世田城に戦死を遂げた。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

大館館跡は遺構は全く残らず、まさに畑の真ん中にポツンと祠と真っ赤な模擬冠木門が建ち、説明板と標柱が設置されている。
周りを沼地に囲まれ守られた館だったのであろう。
(2008/02/28訪れて)

ギャラリー

畑の真ん中にポツンと祠と真っ赤な模擬冠木門が建っているのが見える。

祠と説明板・標柱

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