越後 平林城(村上市)

平林城本丸(殿屋敷)南側の空堀(殿堀)と土塁

上杉謙信の股肱の臣・色部氏の居城

所在地

新潟県村上市平林
【アクセス】
国道7号線の「平林信号」から東へ入り東進すると案内標識があるので分かると思います。山麓に駐車場があります。

所要時間

今回は25分強でした。

形状

館(丘城)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、虎口、石碑、遺構案内板、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2015/10/24

歴史等

平林城は山麓の館城(居館)と背後に聳える要害山に築かれた加護山城から成る。
一説に、山麓の館城は建久(1190)の頃には豪族平林内蔵助代々の居城であったが、南北朝動乱の際に平林氏は色部氏の意向に反して新田義貞勢に属したため、色部氏に攻められ領地と共に没収されたと伝えられる。
また、鎌倉時代初頭に小泉荘の地頭になった平姓秩父季長が、建永年間(1206~07)頃に嫡子の行長(本庄氏の祖)に本庄、庶子の為長(色部氏の祖)に加納(現在の村上市の一部:旧岩船潟・有明付近)の地頭職を譲り、鎌倉時代の後半(13世紀後半)に為長の子・公長が鎌倉から移ってきたとの説がある。
色部氏の当初の本拠地は不明であるが、その姓から「小色部」付近が比定されている。また、色部氏が平林城に本拠(館)を移した時期も不明であるが、15世紀末(戦国時代)には居城としていたと考えられる。
戦国時代、色部家には勝長・顕長・長真と名将が相次いで出現し、上杉謙信の股肱の臣と頼られた。
慶長3年(1589)、色部氏は米沢金山城へ移り、平林城は廃城となった。
『「現地説明板」、「現地パンフレット」参照』

現況・登城記・感想等

平林城、要害山(加護山城)の西麓に築かれた丘城(居館)で、広義の「平林城」の館城(居館)です。
居館の北西を流れる滝矢川を天然の堀として利用し、殿屋敷と呼ばれる本丸、二の丸(中曲輪)、岩館と呼ばれる三の丸の3つの曲輪を鍵型に連結した縄張りとなっており、曲輪・切岸・土塁・空堀・虎口などの遺構はほぼ完存です。
本丸は東西約90m、南北約150mのほぼ三角形で、滝矢川が流れる北西側は浸食による断崖となり、他の2方(東面と南面)には土塁と空堀が設けられています。
二の丸は、一辺約80mの方形の曲輪で、幾つかに区画割され、東側と西側には土塁が設けられています。西側の土塁は三の丸と区画する土塁であり、その北側は東虎口となります。
三の丸は、東西約200m、南北約90mの居館最大の曲輪で、ひな壇状に大きく3つに区画され、北西には北虎口、南西には南虎口があります。
平林城跡は、他にも弁天虎口や切岸等々見どころ満載の城です。
(2015/10/24登城して)

ギャラリー

平林城縄張図(現地説明板より)
平林城は、居館の北西を流れる滝矢川を天然の堀として利用し、殿屋敷と呼ばれる本丸、二の丸(中曲輪)、岩館と呼ばれる三の丸の3つの曲輪を鍵型に連結した縄張りとなっています。
平林城鳥瞰図

登城口
登城口は上の縄張図の現在地に当たります。登城口から見る平林城跡は、鬱蒼とした木々に囲まれた、如何にも中世の城の雰囲気満点で、期待に胸が躍ります。
登城口

北門(北虎口)
登城口の右手には、北門跡(北虎口)があります。虎口は、微かに枡形になっているのが分かります。当城は、城主色部長真が「豊臣姓」を与えられたほどであり、長真によって城の改築が行われたと思われ、この北虎口も含め虎口などに織豊期城郭の特徴がみられます。
北虎口

岩館(三の丸)北面の切岸と堀跡
上写真の右手の濠跡と土塁壁(切岸)です。土塁壁は、高さ5mほどあります。また、堀は地形的に考えて往時は水堀或いは泥田堀であったと思われます。
岩館西面堀

岩館(三の丸)西面の切岸と堀跡
見事な土塁壁(切岸)です。石垣でなくとも、これぞ「ザ・城」といった感じです。
岩館南面切岸

岩館(三の丸)
登城口から登ると、右側は岩館(三の丸)跡になります。三の丸は、東西約200m、南北約90mの居館最大の曲輪で、ひな壇状に大きく3つに区画され、それらもさらに幾つかに区画割されています。
岩館

岩館(三の丸)の土塁
岩館(三ノ丸)の北虎口両側から高さ1m程度の土塁が延びています。また、曲輪内部にも仕切り土塁のようなものがあります。
三の丸土塁

弁天虎口
登城道を進むと、左手前方下に弁天虎口があり、はっきりと枡形になっているのが分かります。虎口の左側上は馬出しです。 
弁天虎口

岩館(三の丸)と中曲輪(二の丸)を区画する土塁が前方に
登城道の前方に土塁が見えて来ます。岩館(三の丸)と中曲輪(二の丸)を区画する土塁です。土塁の北端(写真左端)は東虎口です。
岩館土塁

岩館(三の丸)と中曲輪(二の丸)を区画する土塁と空堀
土塁の高さは4mほどあり、堀の幅は5mほどです。何故か、堀が内側(二の丸側)にあります。
二の丸と岩館間の土塁と堀

中曲輪(二の丸)
二の丸は、一辺約80mの方形の曲輪で、幾つかに区画割されています。
中曲輪

中曲輪(二の丸)東側の土塁
中曲輪は東側に山城(加護山城)との境となる土塁があります。加護山城跡へは、土塁が途切れた部分から登って行くことができます。但し、この途切れた部分は、往時の尾口ではないかもしれません。
中曲輪土塁

中曲輪(二の丸)東側の空堀
中曲輪(二の丸)土塁の外側は空堀があったようですが、ほとんど埋まってしまっています。
二の丸空堀

中曲輪南側の急崖
中曲輪(二の丸)の南側には土塁は設けられていませんが、急崖になっています。
二の丸南側

表虎口(虎口門)
中曲輪(二の丸)と殿屋敷(本丸)の間は土塁と空堀で区切られ、殿屋敷(本丸)へは、表虎口(虎口門)を通って行きます。
発掘調査により、堀の中に直径約18cmの円形木柱が2列に6本検出され橋脚であったことが確認されたとのことです。また、虎口部には門跡の礎石が3ケ検出されたそうです。

表虎口

中曲輪(二の丸)と殿屋敷(本丸)を区切る土塁と殿堀
表虎口に面した殿堀は「箱堀」で、かなり埋まってしまっていますが、往時は幅約7m、深さ9.5mあったそうです。 
殿堀

中曲輪(二の丸)と殿屋敷(本丸)を区切る土塁
土塁の高さは、本丸内から1.5~2mほどです。厚さは、土塁底部で4mほどあります。
本丸南側土塁

殿屋敷(本丸)
殿屋敷(本丸)は東西約90m、南北約150mのほぼ三角形です。写真奥(殿屋敷東側)の土塁は一部破壊されていますが、概ね良好に残っています。
本丸

殿屋敷(本丸)東側の土塁
土塁の高さは、1.5~2mほど、土塁幅は底部で4mほどあります。。
本丸東側土塁

殿屋敷(本丸)東側の土塁と空堀
土塁の外側には空堀が設けられています。こちらの空堀は、薬研堀です。現在、堀底から土塁上までは3m強です。
本丸東側土塁と空堀

殿屋敷(本丸)北西側は断崖
本丸北西側には土塁は設けられていませんが、滝矢川の浸食による断崖になっています。
本丸北西断崖

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