鈴岡城本丸西側の空堀
信濃小笠原氏三家の一つ鈴岡小笠原氏の城
所在地
長野県飯田市駄科、鈴岡城址公園
【アクセス】
国道151号「鈴岡公園入口」信号を北へ入り、200m先突き当たりを左折して県道444号へ入り、700m程北西へ進むと右手に鈴岡城址公園があり、Uターンするよに曲って登って行く道があります。そこを登って行くと公園へ出る。公園(外郭や二の丸跡)に無料駐車場が完備されています。
所要時間
二の丸跡に駐車場有り。今回の見学時間は、本城も含めて約1時間でした。
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 鈴岡城址公園
【遺構等】 曲輪、空堀(横堀・竪堀・堀切)、土塁、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2013/10/27
歴史等
鈴岡城の築城は定かではないが、南北朝時代に小笠原宗政が築いたとされる。
もともと鈴岡城や松尾城のある伊賀良荘は、鎌倉時代、北条氏が地頭職を持つ荘園であったが、鎌倉幕府滅亡後、南北朝から室町期にかけて、この荘園は信濃守護小笠原氏の所領となった。
南北朝時代、小笠原氏は内紛が絶えず、室町中期に深志、松尾、鈴岡の三家に分裂し、戦国時代まで宗家をめぐって抗争が続いた。
鈴岡の小笠原政秀は、はじめは深志にいたが、争いを避けて松尾城の光康を頼り、その後、鈴岡城に入って伊賀良荘の一部を治めた。しかし、次第に信濃守護職と伊賀良荘を巡って松尾小笠原家と争うようになった。
明応2年(1493)正月、松尾城の小笠原定基は、新年の挨拶に来た鈴岡城の政秀とその子長貞を謀殺した。政秀の夫人は天竜川下流の下条氏の吉岡城へ逃げ込んだ。すると、定基は鈴岡城へ攻め落とし、鈴岡小笠原家は断絶した。
それを聞いて、政秀の養子であった深志の小笠原長朝(林城主)は、下条氏一族とともに松尾城を攻撃し、交戦3年。定基は城を捨てて甲斐の武田氏のもとへ逃げ去り、深志小笠原氏は分立後100年ぶりで同族を押さえることになった。
その後、定基は松尾へ戻って来たが、天文3年(1534)再び深志の長棟(長朝の孫)に攻められ松尾城を捨てて甲斐へ逃げた。そして、長棟の子・信定が鈴岡城に在城した。
天文23年(1554)、武田信玄が伊那へ侵攻した際、鈴岡城は、先鋒を務める定基の子・信貴に攻められ落城し、信定は下条へ逃れた。その後の鈴岡城は松尾城の支配下に置かれた。
その後、松尾小笠原氏は、戦国大名の武田氏、徳川氏の傘下で所領を保ち、天正18年(1590)徳川氏の関東転封に伴い武蔵本庄に移された。それに伴い、鈴岡城は松尾城とともに廃城になったと考えられる。
『「信州の山城・信濃史学学会編(信毎書籍出版センター刊)」ん「信州の城と古戦場・南原公平著(しなのき書房刊)」、「現地(出丸)説明板」ほか参照』
現況・登城記・感想等
鈴岡城跡は、鈴岡城址公園として綺麗に整備され、市民の憩いの芝生広場となり子供連れの家族でいっぱいでした。
しかし、公園化してはいるものの、城跡は、ほぼ完存状態であり、中世の南信濃における平山城の遺構を探る上で貴重な城跡であるのは勿論ですが、嬉しくなってくるほど見どころ満載且つ見応え満点の城跡です。中でも、各曲輪を区切る巨大な空堀群は見事なものです。
また、本丸や出丸跡からは、毛賀沢川を挟んですぐ目の前に見える松尾城をはじめとして、周囲に築かれていた山城がいっぱい見え、戦国時代、戦略上、重要な地であったのを実感します。
また、遠くには、日本第2の高峰「北岳」をはじめ、間ノ岳・仙丈ヶ岳など3千メートル級の高峰が連なる赤石山脈(南アルプス)などが望め、周囲の山々や町並みとの光景が素晴らしい。
兎に角、楽しく見て廻るのことができる城跡です。
(2013/10/27訪れて)
ギャラリー
鈴岡城縄張図(現地本丸跡説明板より)
鈴岡城は、北に毛賀沢川、南に伊賀良川に挟まれた河岸段丘の先端部に位置し、自然の地形を巧みに利用して築かれた城である。縄張りは、台地東端の本丸を中心として、大規模な空堀で二の丸と外郭を取り囲むようにして郭が配置された梯郭式の構造である。
外堀
鈴岡城址公園への坂道を登り、公園下に到着すると、右手に土塁が見え、その下に外堀が確認できる。この外堀は、二の丸と城外を隔てる横堀で、部分的に屈曲し、本丸と二の丸を囲んで毛賀沢川に合流する。堀の外側の土塁は、武者走りで、兵の移動通路であったとみられ、外郭や城下の北平と繋がっている。現在、この外堀と二の丸南下の空堀(一段下の写真)は道路(駐車場でもある)で分断されているが、元々は繋がっていたようである。
二の丸南下の空堀
かなり埋まってしまっているようで、深さは2~3m(二の丸上とは5mほどある)ほどだが、幅は8~10mほどある立派な空堀です。
二の丸への土橋
二の丸南下の空堀は、二の丸下を西側へ周っており、二の丸南西部には土橋が架かっている。尤も、この土橋は平成19年に設置されたもので、元々、この部分は空堀が最も狭くて浅くなっていた場所で、城の虎口があったと思われる。発掘調査の結果、畝状の地形が3条確認されたそうで、攻城兵の移動を妨げる施設とか土橋とも考えられるが、おそらく橋脚台でしょう。
二の丸西下の空堀
二の丸西下の空堀は、幅10m、深さ約5m(二の丸上までは8mほど)あり、北へ向かって落ちて行っており、どんどん深くなっていっている。
二の丸西下空堀の北端部
二の丸西下の空堀は、北端部では二の丸との比高は10mほどになり、二の丸北端部で真っ直ぐ落ちていく空堀と、西へ曲がって荒小屋の西側へ延びる空堀とに分かれている。
二の丸
二の丸は本丸の南西側に位置する曲輪で、本丸を囲むようなL字形をしており、南北・東西ともに約110mある。周囲を空堀で囲まれており、南・西・北側の一部には土塁の痕跡が残っている。又、本丸の防御性を損なわないように、本丸よりも低く造られている。今は、広~い芝生広場(一部駐車場)となり、多くの子供連れで賑わっていました。
二の丸北端部の急崖と土塁
二の丸の北側は、元々急崖で、それだけでも防御万全かとも思えるのですが、二の丸北端部には土塁が設けられ、崖はさらに削った切岸となり、腰曲輪まで設けられて盤石です。
本丸南側の空堀
本丸と二の丸を区画する空堀は、本丸を取り囲むようにL字型になっている。非常に大規模で、幅は15~18mほど、深さ6mほどあり見応え満点です。
本丸南側の空堀から続く竪堀
上写真の空堀は、途中、道で分断されているが、東の方へと続き竪堀となって山裾へ落ちて行っている。これまた、見応えがあります。
本丸西側の空堀
この本丸西側の圧倒されるような巨大空堀が、当城の最大の見どころではないでしょうか。その規模は、深さ7m、幅20m(最大幅30m)ほどもあり、そのまま巨大竪堀となってそのまま落ちていっているといった印象です。
本丸
東西約60m、南北約80mほどあり、西側に土塁(写真左奥)が設けられている。
本丸土塁
この本丸西側に設けられた土塁は、高さ1mほど、長さ約30mほどです。
本丸からの東方面の眺望
本丸からは、東方面の眺望が良く、遠くに赤石山脈、そして手前の山々の中には兎城跡・神之峯城跡・知久平城跡などが見渡せる。
本丸と出丸間の堀切(出丸側から撮影)
本丸の北側には出丸があり、その間を堀切が断ち切っている。
出丸から松尾城を望む
出丸には展望台があり、毛賀沢川の峡谷を挟んで北東300mほど向こうに松尾城が見える。まさに、目と鼻の先である。仲の悪かった両者であり、いつもここから見張っていたことでしょう(苦笑)。今では、毛賀沢川に橋が架かり、この出丸からハイキングコースを、一旦下りて、松尾城址へ攻め入ることができます(笑)。
出丸からの東方面の眺望
目を東へ移すと、遠くには、日本第2の高峰「北岳」をはじめ、間ノ岳・仙丈ヶ岳など3千メートル級の高峰が連なる赤石山脈(南アルプス)などが望め、眼下には飯田市街を見渡すことができる。また、飯田市街の向こうには、知久平城跡・虎岩城跡・北原城跡・小川松下城跡なども見え、戦国時代、この地が戦略上の重要な地であったのを実感します。
外郭(的場)
二の丸の西側には外郭がある。部分的な発掘調査では、遺構・遺物は出土せず、日常生活品が出土した二の丸とは異なる場の利用が考えられる。
外郭西側の空堀
外郭西側の空堀は、北側(写真右側)が狭く浅くなっており、虎口があったと考えられている。
荒小屋(外郭)
台地の縁を堀で切り離した三角形に近い形をした曲輪で、堀は他の堀と比べて小規模なものである。見るからに凄い竹藪になっていて入って行けそうになかったので突入断念です(/。ヽ)。