物見跡(右)と城址碑(左)
倶利伽羅峠の戦いでは平家軍が、七尾城攻略の際には上杉謙信が陣を敷いた城
所在地
石川県河北郡津幡町清水り1番地1
【アクセス】
津幡ふるさと歴史館「れきしる」のある高台一帯が城跡
津幡ふるさと歴史館「れきしる」:津幡町清水り1番地1、電話076-288-2101
形状
平山城(標高16m)
現状・遺構等
【現状】 津幡歴史博物館「れきしる」ほか
【遺構等】 物見跡、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2016/11/25
歴史等
寿永2年(1183)の源平合戦の時、倶利伽羅峠の一戦を前に、平維盛配下の平家軍が津幡に陣を敷き、街道を見下すこの地(大西山)に砦を築いたのが始まりとされています。
その後、建久元年(1190)頃、井家庄の地頭・都幡(津幡)小三郎隆家が居城したと伝えられています。
天正4年(1576)には、上杉謙信が越中から入って津幡に陣を取り、七尾城を攻略するための拠点にしたと伝えられています。
天正11年(1583)、加賀藩初代藩主前田利家が支配するようになり、越中に対する防備として城を築き、弟の前田秀継に守らせました。翌天正12年(1584)、佐々成政が末森城を攻撃した時、利家は秀継と末森城救援のための軍議をこの津幡城で開いています。
後に、利家が加賀・能登・越中三国を支配するようになると、津幡城は加越国境における軍事的拠点としての意義がなくなり廃城となりました。
『サイト津幡町観光ガイドより』
現況・登城記・感想等
津幡城跡は津幡川の右岸、かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道を見下ろす小高い丘陵地にあります。
最近まで津幡小学校があったそうで、遺構はほとんど残っていませんが、現在は、その高台片隅に「津幡ふるさと歴史館」が建ち、その駐車場前に物見跡がある高さ2~3mほどの土壇が残っています。
土壇の下には説明板がたち、土壇上片隅には城址碑が建てられています。
物見跡の高さは僅か標高16mとはいえ、周囲を見渡すことができ、ここに城が築かれていたのも頷けます。
(2016/11/25訪れて)
ギャラリー
物見跡がある土壇
津幡ふるさと歴史館「れきしる」の駐車場前に忠魂碑がたつ土壇があり、その下に津幡城趾の説明板がたっています。
城址碑と物見跡
土壇の片隅に石碑が建てられています。その手前に「↑津幡城跡 最高地点(物見)標高約16m」の案内板が設置されています。その右奥の少し高い部分が物見跡です。
物見跡
物見跡からの眺め
物見跡の高さは僅か標高16mとはいえ、周囲を見渡すことができ、ここに城が築かれていたのも頷けます。