越前 金ヶ崎城(敦賀市)

二ノ城戸跡に残る堀切

信長が朝倉・浅井による挟撃の危機に瀕した「金ヶ崎の退き口」で有名な城

読み方

「かねがさきじょう」、「かながさきじょう」ともいう

別名

敦賀城

所在地

福井県敦賀市金ケ崎町
【アクセス】
金前寺の背後(北側)の山が金ヶ崎城跡で、金前寺の前に駐車場があります。金ヶ崎町に向かって行くと、あちこちに金ヶ崎城跡の案内板があるのですぐわかります。
金前寺:敦賀市金ヶ崎町1-4、電話0770-22-1909

所要時間

駐車場から月見御殿まで10分弱、今回の見学総時間は約40分。
尚、金ヶ崎城とその支城である手筒城は尾根伝いに繋がっており、セットで登城するのが効率的です。

形状

山城(標高86m)

現状・遺構等

【現状】 城址公園(山林)
【遺構等】 曲輪、堀切、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2016/11/25

歴史等

金ヶ崎城は平安時代末期の治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけての6年間にわたる治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が、尊良親王・恒良親王を奉じて、当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い、翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。    足利方の越前平定後、越前国守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城と称した。
長禄3年(1459)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、斯波義敏は金ヶ崎城を攻撃したが、甲斐氏に義敏は大敗した。その後、越前を掌握した朝倉氏がここを守護した。
戦国時代の元亀元年(1570)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして、徳川家康・木下藤吉郎等が敦賀に進軍、天筒山城、金ヶ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、同盟関係にあった妹婿の近江浅井氏が裏切って朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り、急遽総退却、この時、金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀木下藤吉郎で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。
『現地説明板他参照』

現況・登城記・感想等

金ヶ崎城は歴史上有名な戦いが2度もあった城であり、以前から是非登城したいと思っていました。
金ヶ崎城は、手筒山から北西へと敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城で、三方を海に面した崖の天然の要害の地にあります。
最高地(86m)は月見御殿と呼ばれ、その一段下に金ヶ崎古戦場の碑が立ち、この辺り一帯の平坦地が本丸跡といわれます。
月見御殿跡から見下ろす眺めは素晴らしく、戦国時代の武将が月見をしたというのも頷けます。
金ヶ崎城跡には、3つの城戸跡が残り、そこになかなか見応えのある堀切が残っています。
(2016/11/25登城して)

ギャラリー

金ヶ崎城鳥瞰図(余湖くんのお城のページより)
金ヶ崎城は、手筒山から北西へと敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城で、三方を海に面した崖となる天然の要害の地にあります。最高地(86m)は月見御殿と呼ばれ、その一段下に金ヶ崎古戦場の碑が立ち、この辺り一帯の平坦地が本丸跡といわれます。
金ヶ崎城鳥瞰図

山麓(金前寺前)の駐車場から金ヶ崎城跡を望む
金前寺の前に駐車場があり、そこに「金ヶ崎の退き口」と書かれた大きな看板があります。ここから、左へ向かって金崎宮経由で金ヶ崎城跡へと登城します。 
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保科家墓所
登城道入口右手に保科家の墓所「保科家先祖代々の墓」がありました。保科家といえば、高遠と会津若松しか思い浮かばず、敦賀や金ヶ崎城との繋がりが分かりません。墓の隣の墓誌にも保科正之のことしか書かれおらず、いろいろ調べても分かりません。誰かご存じないでしょうか? 
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登城道
登城道は、まず金崎宮(写真奥上)に向かって登って行きますが、登り始めてすぐ右手に愛宕神社が祀られています。
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城址碑
金崎宮の左奥隅に城址碑と説明板が立っています。この左側の坂道を登って行きます。尚、石段を登り切った金崎宮のすぐ右手からも登ることができます。今回は、下城時にそこへ下りて来ました。
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敦賀港
坂道を登り始めると、左側崖下に敦賀港が見え、ここが要害の地であることが分かります。
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尊良親王墓所見込地
左下に敦賀港を見ながら、少し登ると右手に「尊良親王墓所見込地」の案内があったので登って行きました。
説明板によると「江戸時代末期の安政年間に、この地付近から経塚が発見され、石室から銅製の経筒・円鏡・椀が出土し、明治に入りこれらの出土品からこの地を尊良親王の墓所と解し「墓所見込地」の碑が建てられた。しかし、他に立証する史料が乏しく、又、京都市内(永観堂のそば)に同親王の墓所が指定されていることもあり、現在、親王台臨、自刃の地として保存されている。」 とありました。
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分岐点
再度、登城道に戻り坂道を登って行くと、正面に切岸が見え、その手前で道が左右に分かれます。左は最頂部の月見御殿跡へ、右は三ノ城戸・二ノ城戸・一ノ城戸経由で手筒城跡へ向かう道です。まずは、月見御殿跡へ向かいます。尚、切岸の上は、本丸最下段辺りになります。
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本丸
本丸は数段からなります。最頂部の月見御殿跡へ向かうと、左手に「金ヶ崎古戦場」の碑、さらに古墳跡があります。写真中央奥の石段上が月見御殿です。
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金ヶ崎古戦場の碑
例によって、石碑に刻まれた字か、とても読めそうにありません(/。ヽ)。
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古墳
昭和42年に発見された円墳で、竪穴式石室を有し、副葬品は直刀一振、銅鏡一面が出土しているそうです。
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月見御殿跡
月見御殿は最高所(海抜86m)にあり、敦賀湾に突き出す城の北西端の崖上にあります。
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月見御殿からの眺望
月見御殿跡から見下ろす眺めは素晴らしく、戦国時代の武将が月見をしたというのも頷けます。すぐ下は敦賀新港です。
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三ノ城戸跡
月見御殿から、支城である手筒山城へ向かい坂道を下って行くと、三ノ城戸跡の堀切と土橋が見えてきます。
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当写真は三ノ城戸の土橋を渡ってから撮ったもので、右奥の階段上が本丸です。三ノ城戸は南北朝時代(1336~92)のもので、地名は水の手といい、当時の用水場で付近から清水が湧き出ていたと伝わります。(説明板より)
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三ノ城戸の堀切
三ノ城戸の堀切は竪堀となって山裾へ落ちて行っています。
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兵糧庫跡(焼米出土跡)
三ノ城戸を渡ったところに金ヶ崎城の山上で本丸を除き唯一のまとまった平坦地(曲輪跡)があります。その片隅に「焼米出土跡」の案内板と石碑が立っています。この付近は戦国時代、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の攻防戦で落城の際に倉庫が焼け落ち、その焼米が後に出土したと伝わります。(説明板より)
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二ノ城戸跡
さらに階段を下りて行くと二ノ城戸跡へ出ます。二ノ城戸には土塁が残り、その向こうは堀切で断ち切られています。この城戸跡も南北朝時代からのもので、この付近で激戦があったといわれています。
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二ノ城戸の土橋
この二ノ城戸の堀切に架かる土橋から奥(東)へ120mほどに一の城戸があるそうなのですが、上写真の二ノ城戸の説明板下に、この先で最近熊を見掛けたとの注意書きがあり、おまけに夕方で薄暗くなってきたので、今回は二ノ城戸脇の下り道から下山することにしました。
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二ノ城戸の堀切
二ノ城戸の堀切は、なかなか見応えがあります。
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二ノ城戸を下から
二ノ城戸脇から坂道を下りたところから撮ったものです。土塁とその外側(手筒山側)の堀切のシチュエーションがよく分かります。この坂道を下りて行くと、金崎宮の南東端の大鳥居脇へ出ます。
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