本丸北西の折れのある空堀と稲荷社の祠が建つ櫓台
武田信玄が三方ケ原合戦で大勝後に包囲攻撃して落とした最後の城
所在地
愛知県新城市豊島本城
【行き方】
国道151号「川田信号」を北東へ入り、700m程進んで右折する(道路に案内有)。少し行くと左手は林となり、
さらに少し進むと左手に説明板が2基設置されている。その脇が登城口である。駐車場はないが、道も割り合い広く、
車もほとんど通らないようだったので、道路隅に駐車した。
形状
平山城(丘城)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、櫓台、空堀、土橋、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/02/11
歴史等
野田城は、永正2年(1505)、田峯菅沼氏から菅沼定則が富永荘の地頭富永直郷の後継として入り、館を築いたのが始まりと云われる。
以後、野田菅沼氏は今川氏に属していたが、菅沼定盈のとき、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で討死すると松平元康(後の徳川家康)
に寝返った。怒った今川氏真は、野田城を攻め、一旦は奪い返したが、まもなく奪い返された。以後、
定盈は家康の幕下として遠江などへ従軍している。
元亀3年(1572)の暮れに、三方ケ原合戦で家康を一蹴した武田信玄は、翌天正元年(1573)正月に野田城を包囲攻撃した。
武田軍の来攻を受けて定盈は、家康からの援将松平忠正と共に必死に防戦した。武田軍の軍勢は3万余で、
それに対して城兵は僅か300余であったと伝わる。
小さいながらも要害の野田城を攻めあぐねた武田軍は、甲州金山の坑夫を投入し、本丸と二の丸の間を掘り崩して遮断した。
やむなく城兵は二の丸、三の丸を捨てて本丸に立て籠もった。すると武田軍は本丸の下まで穴を掘り、城内の井戸の水を抜いてしまった。
戦意旺盛な城兵の士気も衰え、籠城すること20日余、遂に定盈は降伏を決意し、自分と忠正の自害を条件に城兵の命を乞うた。
信玄は、一旦はそれを許したが、城兵が落ち延びた後、両人が切腹という段になると、武田の兵がいきなり二人を捕らえてしまった。その後、
信玄は家康の許に使者を送り、この二人と、家康方に抑えられている山家三方衆の人質との交換を申し出て、双方の人質交換がされた。
野田城を攻略したものの、信玄の病いが悪化したため、上洛の企図はそこで頓挫し、甲府へ引き揚げることになった。そして、その途中、
信州の駒場で信玄は息を引き取った。時に天正元年4月12日、享年53歳であった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本城郭大系9」より』
現況・登城記・感想等
野田城は、本丸・二の丸・三の丸からなる連郭式平山城で、現在、その形態は残っているが、本丸跡を除き、雑木林と化している。
三の丸跡の北側を国道151号線、さらに南側の侍屋敷跡にはJR飯田線が走り、周囲の様子は様変わりしているものの、中世城郭の面影はある。
現在確認できる各曲輪は、ほぼ一直線上にあり、各曲輪は二の丸と三の丸の間に微妙な段差が見受けられるものの、ほとんど高低差がなく、
本丸と二の丸間のみ空堀で断ち切られ土橋が架かっている。
二の丸から本丸への土橋を渡った右側に「野田城址」の石碑が建ち、左側の一段高くなった所に祠が祀られている。祠下の土塁からみて、
往時は櫓があったと思われる。
説明板の図を見て、武田軍が坑道を掘ったという跡を捜したが確認することはできなかった。そして、それにより水を抜いたという井戸が、
本丸南西部にあったが、随分立派な井戸だった。
(2010/02/11登城して)
ギャラリー
野田城平面図
本丸空堀(土橋の南側)
説明板の脇から二の丸へ入って行くと、すぐ右手にこの深い空堀が見える。幅約7m、
深さ約6mほどあるだろう。この空堀は、道端(説明板の横)からも見える。
土橋
本丸と二の丸間は空堀で断ち切られ、土橋が架かっている。
本丸空堀(土橋の北側)
右上が稲荷社の祠が建つ櫓台で、強力な横矢の折れとなっている。
本丸土塁
本丸の西側には土塁があり、北側(奥写真)は幅が広く稲荷社の祠が建っている。
往時は櫓が建てられていたのであろう。南側(写真手前)には「野田城址」と刻まれた石碑が立っている。
水抜きの井戸
本丸跡南西には、武田軍の金掘り衆が本丸の下まで穴を掘り、水をぬいてしまったという井戸がある。
結構大きな井戸である。井戸の中を覗いてみたが、勿論、水はなかったというか、埋まっていた。
本丸東側の空堀
本丸の先端部(東)にも空堀があった。左の道を下りると侍屋敷へと。
二の丸と三の丸を仕切る段差??
三の丸と二の丸の間辺りに土塁と堀の名残のようなものを見付けたが、これが遺構かどうかの確信は全くない
(苦笑) また、強烈な藪と化した二の丸跡にも何箇所か微妙な段差を見付けたが・・・(笑)