三河 大野田城(新城市)

城址全景

野田城の出城として大修築した城、後に信玄に攻められ落城

所在地

愛知県新城市野田字幹徳
【行き方】
県道392号線「中市場信号」から約150m西へ進むと溜池(中市場池)があり、道端に説明板が立っている。 溜池の向こう側の森が城跡である。説明板の脇に駐車可能

形状

平城

現状・遺構等

現状:雑木林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、標柱、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2010/02/11

歴史等

大野田城は建武の新政の頃、富永氏の出城で、後の応永年間(1394~1427)の頃は城所浄古斎の砦であった。
永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討死すると、野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、 義元の子今川氏真は怒って、永禄4年に菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、 翌5年再度野田城を奪い返した。
この戦いで野田城が大破したので修復のため、定盈は浄小斎の旧砦を利用して本丸とし、更に二の丸、三の丸を北側に拡大して、 その名も大野田城とした。
元亀2年(1571)武田信玄は足助城(別名:真弓山城)を陥れ、作手からこの城を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷(豊橋市) へ退却し廃城となった。
現在も本丸の土塁や空堀の跡はよく残り、中市場池は明治の頃、本丸を切り崩して造られた農業用の溜池である。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

現在、大野田城址の北は湿地帯、東は池、西と南は水田となっている。往時は、周囲を沼に守られた、 それなりに要害の地であったのだろう。
城址は雑木林となり、曲輪内はかなりの藪状態で全貌が掴み難いが、土塁で囲まれた曲輪の中は、かなり広く、 仕切り土塁のような土盛りで3~4つの曲輪に区画されているようだった。
城の南北の空堀は、藪になってはいるが、はっきりと確認できる。
あまり見どころも見つけないまま、雨の勢いが益々強くなってきたので、早々に引き揚げた(苦笑)
(2010/02/11登城して)

ギャラリー

曲輪
城址は雑木林となり、曲輪内はかなりの藪状態で全貌が掴み難いが、土塁で囲まれた曲輪の中は、かなり広く、 仕切り土塁のような土盛りで3~4つの曲輪に区画されているようだった。

曲輪北側の空堀
曲輪の南北両側の空堀は、はっきりと確認できた。南側の空堀には何とか入って行けたが、 この北側の空堀は降参(汗)

曲輪南側の空堀

標柱
城址の標柱が何ともややこしい場所に設置されている。城址の南東(池の南西)にあたり、南側空堀(上写真) の東先端部の土塁端に立っている。おまけに城址銘が書かれているのが反対側である。右写真は、池の岸(空堀底の端) へ下りて行って撮ったものである。それにしても、何故こんな場所に設置したんだろう?地元の人でも、ほとんど気が付かないだろう(苦笑)
 

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