三河 上ノ郷城(蒲郡市)

主郭南側の曲輪を囲む大土塁と主郭切岸(右)

熊野三山の別当の末裔・鵜殿氏の本城

別名

西之郡之城、宇土城、鵜殿城、神ノ郷城

所在地

愛知県蒲郡市神ノ郷町城山
【アクセス】
カーナビで所在地住所を指定すると「上ノ郷城址」が出てくる。城址の南東部に「赤日子神社」があり、神社西側に駐車場あり。

形状

丘城(標高52m)

現状・遺構等

【現状】 ミカン畑
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、水堀跡、石碑、説明板、城址への案内板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/08/14

歴史等

上ノ郷城は熊野三山の別当の子孫と言われる鵜殿氏の本城である。
この鵜殿氏がいつ頃、この西ノ郡(蒲郡市)の地で勢力を持ち始めたのかは明らかではないが、応仁の乱前後から三河に勢力を伸ばした今川氏の被官として、その勢威を背景に成長していったと思われ、上ノ郷城は15世紀の半ばには鵜殿氏の拠点となったと思われる。
そして、鵜殿長将の時に上ノ郷鵜殿と下ノ郷鵜殿(下ノ郷城)とに分かれ、その子長持の時代には不相鵜殿(不相城)と柏原鵜殿(柏原城)が分立している。
長持の時代(天文年間・1532~55)が、鵜殿氏が最も勢力を保持した頃と思われ、現蒲郡市域のほとんどを支配した。
天文年間、今川氏の力は三河全域に及び、鵜殿氏をはじめ大塚中島城の岩瀬氏や竹谷・形原・五井の松平諸氏も今川氏に従っていた。
しかし、永禄3年(1560)5月、桶狭間合戦にて今川義元が討死したのちは、上ノ郷鵜殿氏と大塚の岩瀬氏を除き、他の諸将はことごとく松平(徳川)氏に服した。これにより鵜殿氏は、本家とその一族とが敵対することとなった。
永禄5年(1562)、徳川家康は松平好景・松平家忠・本多広孝・久松俊勝などに上ノ郷城を攻撃させたが、城の守りは堅く、そこで家康は忍者をして城内に火をかけるという戦法を用いて落城させたという。
落城後は、家康の異父弟久松俊勝が上ノ郷を守り、その嫡男康元が松平の姓を与えられてここを授かった。この時代に、大須賀康高による城の改修が伝えられる。
その後、天正18年(1590)に吉田城主となった池田輝政がこの地を領した。
『「日本城郭大系9」、「愛知の山城・ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」他より』

現況・登城記・感想等

上ノ郷城は、規模こそ大きくはないが、遺構が実に良好に残り見応えのある城跡だ。
中でも、主郭の南側の馬出様の曲輪(空堀とも)とそれを囲む大土塁の光景は見事だ。
主郭は2段になっており、30m×60mほどの楕円形で周囲に土塁はない。当城は、それほど高い丘ではないが、主郭からは蒲郡市内はじめ三河湾一帯が見渡せる。
登城前は、蒲郡市内にこれほど良好に遺構が残る城跡があるとは思ってもいなかったので、ラッキーの一言だ(*^_^*)。
(2011/08/14登城して)

ギャラリー

上ノ郷城全景
城址も含め、周囲はミカン畑になっており、周囲の道は非常に狭いので赤日子神社に駐車すべし!
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登城口
赤日子神社西側からの見学ルートは案内板が設置されている。登城口は城址の南側にある。
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主郭南側の曲輪への虎口
ミカン畑の中をしばらく歩いて行くと、いきなり主郭南側の武者溜りのような曲輪(空堀とも)への虎口が現れる。左側の土塁は特に高く階段が付いている。
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城址碑
左側の高い土塁に登ると高さ3mほどの城址碑が立ち、その向こうの主郭の切岸上に「上ノ郷城跡」の大きな看板が見える。
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主郭南側の曲輪周囲の土塁と主郭切岸
石碑のところから眺める曲輪(空堀とも)周囲の土塁と高さ10m近くあろうかという主郭切岸の光景は圧巻だ。この光景を見ることができただけでも大満足(*^_^*)。
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主郭南側曲輪の南側から西側にかけての大土塁
曲輪周囲の土塁は、特に南側の石碑の立つ辺りから西側にかけては特に高くなっていて見応え充分!
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主郭南東部の腰曲輪
主郭南東部下にも腰曲輪が良好に残っていたが薮がひどく入って行く勇気がなかった( ̄ー ̄;。この右(南東)下には曲輪に沿って水堀であった城池が残っているのだが・・・(/。ヽ)。
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主郭
主郭は2段になっており、30m×60mほどの楕円形で周囲に土塁はない。
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主郭からの眺望
当城は、それほど高い丘ではないが、主郭からは蒲郡市内はじめ三河湾一帯が見渡せる。
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