三河 上野上村城(豊田市)

二の丸跡(広場公園)から本丸跡(鎮守の森)を

徳川四天王の一人・榊原康政の出生の城

別名

上野城

所在地

愛知県豊田市上郷町藪間(上郷護国神社、城山稲荷)

形状

平城

現状・遺構等

現状:上郷護国神社、城山稲荷、公園
遺構:曲輪、土塁、櫓跡?

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2006/08/26

歴史等

応仁の頃(1467)伊勢貞親の被官であった戸田弾正左衛門宗光による築城と伝えられている。城の周囲に自然地形を利用した堀が巡り、南西に本丸、北東に二の丸が配されている。
宗光は文明7年(1475)に次男の家光を残して渥美郡大津に移り、田原城を築いて田原城主となった。そして家光もほどなく田原に移っている。
明応2年(1493)上野城に在った阿部孫次郎は寺部の鈴木氏、挙母の中條氏、八草の那須氏、伊保の三宅氏と連合して松平親忠と井田野(岡崎市)に戦い、敗れて松平氏に服属した。
その後、上野城には松平信定およびその子・清定が在城した。清定は天文14年(1545)松平広忠と戦い、同年に降伏して桜井(安城市)に蟄居の身となり、代って酒井忠尚が入城する。
しかし、永禄6年(1563)三河一向一揆が起こると忠尚は一揆方に味方したため徳川家康に攻められることになる。永禄8年(1565)、一揆が鎮まって忠尚は駿河に逃れ、上野城は落城した。落城後は家康により、上野七人衆と呼ばれる在番衆が置かれた。
尚、徳川四天王の一人・榊原康政は天文17年(1548)、榊原長政の第二子としてこの城にて生まれた。
『現地説明板参照』

現況・登城記・感想等

上野城址は村の鎮守の森となり、碑等が建っていなければとても城址とは気が付かない。ましてや、あの徳川四天王の一人・榊原康政の生誕の地などとは・・・。
その鎮守の森はこんもりした土塁の部分が城山稲荷で、本丸跡らしき部分が上郷護国神社になっている。そこには「上野城跡無縁佛供養塔」がたっていた。森の隣には二の丸跡であろう、公園広場になっている。また、本丸横には自然の堀である川が今も流れている。
(2006/08/26訪城して)

ギャラリー

城山稲荷
この奥の土塁の上に小さな祠がある。
上野上村城 城山稲荷

土塁
ただの土塁にしては、もっこりして高い。櫓台跡かもしれない。

上郷護国神社(本丸跡)

「上野城跡無縁佛供養塔」

城の横の自然地形を利用した堀

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