美濃 川手城(岐阜市)

済美女子高校グラウンド片隅の築庭に立つ城址碑と説明板

美濃源氏(土岐源氏)、土岐氏の居城

別名

革手城

所在地

岐阜県岐阜市下川手、正法寺町、済美女子高校一帯
済美女子高校:正法寺町33、TEL 058-271-0345

形状

平城

現状・遺構等

現状:済美女子高校
遺構等:石柱、説明板

満足度

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訪城日

2008/05/05

歴史等

美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族である。
なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地土岐に土着し、土岐氏と名を改め、現瑞浪市一日市場に居住し、文治5年(1189) 美濃国守護となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となった。
光衡の子光行は、源実朝に仕え、建保4年(1216)池田親九郎追悼の軍功をあげ左衛門尉となり、土岐市浅野に住み、東美濃を統一した。
その子光定は、土岐惣領を継ぎ、執権北条貞時の娘を妻にして、隠岐守となり、土岐氏隆盛の基となる。
土岐中興の祖となる頼貞は、光定の子で、母は北条貞時の女で、執権北条高時の兄妹である。土岐惣領を継いだ頼貞は、文武に秀で人物豊かで、 その子頼清や頼遠と共に、正慶2年(1333)元弘の変に後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げた。その後、 建武新政の不満に兵を挙げた尊氏に従い数多くの軍功をあげ、信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、現瑞浪市一日市場、 現土岐市大富にその居館を構え、11代続く足利幕府守護職の初代となった。
第2代守護頼遠は、父頼貞と共に尊氏に従って数々の軍功あげた。そして、現土岐市大富が辺地であることから、 現岐阜市南長森に長森城を築き居住した。しかし、頼遠は功に募りて驕慢で、康永元年(1342)持明院(後光厳上皇) に無礼を働き断罪された。
第3代守護頼康は、頼遠の後を継いで土岐惣領となり、尊氏の命により信濃・伊予を平定し、その軍功により美濃・尾張・ 伊勢の3ヶ国の守護職となった。そして、長森城が狭いため、文和2年(1353)6月、現岐阜市下川手に革手城を築きこれに移った。 別名革手府。土岐源氏の名声と実力は最高に至った。
この城は、旧木曽川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、 神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推察される。
以後、革手城は11代まで歴代の守護職の拠城となる。
革手城が都風となって繁栄したのは、建武の新政の失敗と応仁の乱である。都を追われた公家・百官・ 天上人が地方の守護職を頼って寄宿したことにある。これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の土岐氏 (革手)であった。これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など、都文化の花を咲かせた。
こうして築かれた革手府文化は、明応3年(1494)の土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、 3日3晩燃え続ける戦乱によって灰塵となり、革手城も焼失した。
城は後に再建されるが、享禄3年(1530)土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移した事により廃城となる。
その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなった。
『現地説明板他より』

現況・登城記・感想等

済美女子高校敷地一帯が城跡であるらしいが、グラウンドの片隅に柵に囲まれたちょっとした築庭があり、 そこに城址碑とやたらと詳しい説明板があるのみで、往時の面影は全く無い。
(2008/05/05訪れて)

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