天方城主郭北側の内堀
今川氏の臣・山内氏の居城、今川義元没後は武田・徳川氏の争奪の場に
読み方
あまがたじょう
所在地
静岡県周智郡森町向天方
【アクセス】
新東名「森掛川IC」を出て、約1kmほど西進すると「福田地」信号へ出る。そこを右折して県道58号線を約1kmほど道なりに北上すると「森川橋西」信号へ出る。そこを右折して、太田川に沿って800mほど北上すると右手に「天森橋」が架かっている(案内板あり)。橋を渡り、そこからは次々に現れる案内板に従って行けば「城ヶ平公園」に辿り着く。山道は、非常に細いので気を付けて運転して下さい。
所要時間
主郭のすぐ下まで車で行ける。駐車場から主郭上まで直接登っていけば、1分ほど。
形状
山城(標高250m)
現状・遺構等
【現状】 山林(城ヶ平公園)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀(横堀、竪堀)、土橋、石碑2基、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2013/09/22
歴史等
天方城の創築に関しては定かでないが、応永年代(1394~1428)には既に山内対馬守道美の居城であったという(道美が築いたとも)。
永正3年(1506)8月、今川氏親の命で伊勢新九郎(北条早雲)が、東三河に侵攻した際に、これに従った遠江衆の中に天方氏の名があることから、その頃には今川氏に属していたと考えられる。
永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで没し、駿河遠江を支配していた今川氏が弱体化すると、三河の徳川家康は、永禄11年(1568)から遠州侵攻を開始し、遠江の諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。
そのため、街道の要所に位置していた天方城は、徳川氏と武田氏の争奪の場となった。
時の天方城主天方山城守通興(みちおき)は、家康が浜松(曳馬城)に入城してからも、家康に敵対していたため、永禄12年(1569)6月19日家康は、先陣榊原康政、天野康景、大久保忠隣をして天方城に攻め入った。山城守もよく防戦したが遂に力つきて降伏した。
しかし、下知に従わず、翌元亀元年(1570)10月、再び軍兵を集めて立て籠もったため、大須賀康高、榊原小平太康政などに攻められて降伏し、徳川の支配下に入った。
それから3年後の元亀3年(1572)9月下旬、武田信玄が4万余の大軍を率いて犬居城主天野景貫の案内で多々羅城、飯田城の2城を攻略して、天方城に迫った。天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。そして、信玄は久野弾正忠宗を残して、山城守とともに天方城を守らせた。
翌天正元年(1573)3月家康は、平岩親吉を将として、天方城攻略を決行した。城を守っていた久野弾正は、城兵を指揮して大手の門を切って出て、散々に戦ったが、寄せ手の大久保忠隣、渡辺政綱、渡辺守綱らに烈しく攻められ、山城守は再び降伏し、弾正は甲斐へ逃げ去ってしまった。
その後、天方城は、また武田氏の持城となったが、天正2年(1574)3月、家康は遠州の軍兵を引率し攻落した。
尚、通興の子通綱(みちつな)は、家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられ、天正7年(1579)9月15日二俣城にて、切腹を命ぜられた際、介錯をつとめた。そのため通綱は、主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山に登り仏門に入ったが、後に、越前福井城主松平秀康に仕え、越前天方氏の祖となり、その子孫は明治まで松平氏に仕えた。
一方、通興は通綱が高野山に登った為、天方家の存続を図るため、外孫の青山播磨守忠成の5男である通直を養子にした。通直は、幼少の時より家康に奉公して慶長19年(1614)の大阪冬の陣に供奉している。また、元和元年(1615)大阪夏の陣の時は、秀忠に従い天王寺の戦いに戦功を上げている。
『「現地説明板」、「日本城郭大系9」参照』
現況・登城記・感想等
天方城は、山頂部に半円形の主郭を置き、その北側に二曲輪を設けている。
主郭周囲は、南側の急斜面を除いた円形部分周囲を二重の空堀がめぐっている。
外堀は駐車場などで一部破壊されているが、内堀は良好に残り、北側と西側の2ヶ所には主郭へ入る土橋が架かっている。内堀の深さは、堀底から主郭側は高さ4~5m、外側土塁上までは高さ2mほどあり、僅かに折れがあるような感じでかっこいい。
主郭は、公園化され旧状は分かり辛いが、削平は甘く、二段になっていたようだ。
また、南西から西方面は見晴らしがよく、眼下に森町をはじめとする町並みが見渡せ、展望台が建てられている。
天方城跡は、想定していたよりも遺構が良好に残る見応えのある城址で、それなりに満足したが、それ以上に、山麓から登って来る細い道は車一台がやっと通れるほどで、対向車が来ないかビクビクしながら運転した想い出の方が印象深いかも?(苦笑)。
(2013/09/22登城して)
ギャラリー
天方城縄張略図(現地説明板より)
【登城】
山頂部の天方城址までのくねくねと曲がる山道は、山麓付近から既に狭くて、車1台がやっと通れるほどです。おまけに、すれ違いが出来るような場所は、100mほどに1ヶ所あるかないかといった程度です(;´▽`A``。「対向車が来なければいいが」と、ビクビクしながら登って行きます。しばらく登って行くと、茶畑が現れ、正面奥に展望台らしきものが見えて来ましたが、まだまだ結構遠いです( ̄ー ̄;。
駐車場入口に立つ城址碑
幸い対向車に遭うこともなく、無事、山頂部の城跡(城ヶ平公園)へ到着すると駐車場入口に立派な城址碑が立っていた。
駐車場
駐車場は随分広く、かなりの数の車が停めれます。途中に、「道路拡張工事のため迷惑をかけます」とあったが、駐車場より道路拡張工事を早めて欲しいものです(苦笑)。駐車場の南東隅には縄張図付きの説明板が設置されている。登城道は、駐車場奥へ真っ直ぐ進み、二の曲輪を通って主郭へ向かう道と、説明板裏から主郭へ直接登る道があります。
外堀
二の曲輪を通る登城道を選んだが、その北側下には外堀が残っている。かなり埋まってしまい浅いが、まあ良好に残っているといえるでしょう。縄張図を見ると、駐車場が外堀を破壊して分断してしまっているようです。
主郭北側の内堀①
二の曲輪に戻り、主郭周囲を時計回りに登って行くと、右前方に空堀が見えてくる。なかなか良好に残り、堀底から主郭上までは4~5mほどありそうです。
大手
主郭の南東隅が大手のようで、尾根が延びているが、通行止めです。
南側は急崖
主郭南側には、空堀も土塁もありませんが、急崖が防御のようです。
主郭
主郭跡は、芝生が植えられ公園化されて旧状は分かり辛いが、元々削平は甘く、二段になっていたようだ。
主郭跡に建つ城址碑
主郭にも立派な城址碑が建てられている。
南西から西方面の眺望と展望台
南西方面は見晴らしがよく、眼下に森町をはじめとする町並みなどが見渡せ、主郭下には展望台が建てられている。浜松在住時代によくプレーした葛城カントリーや掛川グリーンヒルなどのゴルフ場も見え、懐かしかった。
主郭西側の内堀
主郭西側の内堀は、埋まってしまったためか、或いは、外(西)側下が急崖になっているため多少防御が甘くても良しとしたのか、かなり浅く、主郭側でも堀底から高さ2mほどしかない。正面奥に土橋が見えます。
主郭西側内堀に架かる土橋
主郭北西下の内堀
主郭北西下の内堀は良好に残り、主郭側は堀底から高さ5mはあるでしょう。正面奥に土橋が見える。
主郭北側の内堀に架かる土橋と主郭虎口
駐車場に設けられた説明板裏から直接主郭へ登って来ると、ここへ出ます。
土橋から眺める主郭北下の空堀
土橋から主郭北下の内堀の東の方を眺める、僅かですが折れが見られるような光景がかっこいいです。この辺りは、堀底から主郭上までは高いところでは6mほどあるのではないでしょうか。
主郭北西下の外堀
この外堀周辺は、整備がもう一つで、蜘蛛の巣がすごくて大変でした(/。ヽ)。
竪堀
主郭西側の土橋の下には竪堀が確認できます。写真は竪堀の下から撮ったものですが、実物では、はっきり分かるのですが、写真にすると分かり辛いです。ここに限らず、竪堀の写真は難しいですね(/。ヽ)。