遠江 見付端城(磐田市)

公民館前に立つ小さな城址碑

今川了俊を祖とする遠江今川氏の城

読み方

みつけはじょう

別名

端城、遠府城

所在地

静岡県磐田市見付字古城
【アクセス】
大見寺に土塁が残っています。
大見寺:磐田市見付2510−1、電話0538-32-5908

形状

丘城

現状・遺構等

【現状】 市街地(大見寺、見付公民館など)
【遺構等】 土塁、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2014/05/15

歴史等

築城年代は定かではないが室町時代初期に今川氏によって築かれたと云われる。今川基氏の子範国は北朝方として各地を転戦し、正慶2年(元弘3年、1333)遠江国守護職に任ぜられ、建武4年(延元2年、1337)には駿河国守護職をも兼任するようになった。
その後、半世紀にわたって遠江・駿河を舞台として活躍し、かつて国府が置かれ遠江の中心地である見付を根拠地に選んだと考えられる。
その後、範国の嫡子今川範氏と子の泰範が駿府進出を企て、範政の代に至りその目的を達成した。
今川氏の宗家が駿河に入ると、見付端城は、遠江今川氏、即ち今川貞世(了俊)以後数代の居城となったが、了俊5代の孫貞基(堀越用山)が、反義元派に属したため、天文6年(1537)今川義元は見付端城主貞基を犬居城主天野氏に命じて攻撃させこれを落とした。
尚、「三河記」によると、永禄12年(1569)に家康が新城(城之崎城)を築いた時に廃城となったという。
『日本城郭大系9他参照』

現況・登城記・感想等

大見寺の墓地背後に鍵型に高さ3~4mほどの土塁が残っています。山門から約30m西に延び、そこからほぼ直角に折れて北へ向かって5~60mほど延びています。
山門脇には、寺の他の文化財とともに見付端城の縄張りと説明が載ってます。
また、寺の北側にある見付公民館前に小さな城址碑が立ってます。
(2014/05/15訪れて)

ギャラリー

見付端城縄張図(大見寺山門脇説明板より)
この縄張図によると、石碑が立つ公民館辺りが二の丸で、寺の東50mほどのところを流れる中川は堀代わりであったのでしょう。
見付端城縄張図

南西隅の土塁
大見寺の墓地背後に鍵型に高さ3~4mほどの土塁が残っています。
見付端城土塁1

西側の土塁
墓地の西側の南北に延びる土塁は、長さ5~60mほどあります。
見付端城土塁2

中川
城跡の東側を流れる、この中川は往時は堀代わりの役目をしていたのでしょう。
中川

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