一ノ曲輪西側の帯曲輪(空堀)
斯波氏と今川氏、後に徳川氏と武田氏の抗争の場となった城、遺構が良好に
読み方
やしろやまじょう
別名
水巻城
所在地
静岡県磐田市(旧豊岡村)社山
【アクセス】
天竜浜名湖鉄道「敷地駅」から1.3~1.4km程西進して左折し、800m程南下すると道路沿いに案内板(小さいので見落としやすいので注意要)が有ります(「豊岡南小入口」信号を800m北上したところになります)。そこからは、案内板に従って行けば登城口へ出ます。登城口付近に駐車スペースがあります。
所要時間
登城口から本丸まで約7分、今回の所要時間は約35分。
形状
山城(標高130m)
現状・遺構等
【現状】 山林(社山公園)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、竪堀、土橋、遺構案内板、標柱、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2015/11/15
歴史等
社山城の築城年代や築城者については不明ですが、文亀年間(1501~03)頃には斯波氏と今川氏との抗争の場となり、その戦いで斯波氏が敗れたため今川氏の支配になったと伝えられています。
その後、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の子氏真が徳川氏と武田氏とによって領国を逐われ今川氏が没落したため、三河の徳川氏の支配となりました。
しかし、元亀3年(1572)に武田信玄が上洛を企図し遠州地方に侵入したため、今度は徳川氏と武田氏との抗争の場となりました。
天正10年(1582)武田氏が滅亡したため、城としての存在価値がなくなり、天正18年(1590)に徳川家康が関東移封されたことによって廃城となったようです。
『現地説明板他より』
現況・登城記・感想等
社山城は、城山の最高所の一ノ曲輪と東の尾根の二ノ曲輪から構成され、それに付随して多くの小さな郭が配置されています。
曲輪・土塁・空堀・堀切・竪堀・土橋などの遺構の保存状態は良好です。
中でも、一ノ曲輪と二ノ曲輪を断ち切る大堀切や一ノ曲輪の西側の帯曲輪(空堀)は見応え充分です。
(2015/11/15登城して)
ギャラリー
社山城縄張略図(現地説明板より)
社山城は、城山の最高所の一ノ郭と東の尾根の二ノ郭から構成され、それに付随して多くの小さな郭が配置されています。
登城口
登城口は3ヶ所ほどあるようですが、城跡の北側から一ノ曲輪から延びる尾根上の道を登って行きます。登城口から眺める森は中世の山城の雰囲気満点です。
堀切と土橋
登城口から登り始めて2~3分ほどで良好に残る堀切が現れます。堀切には土橋が設けられています。
片堀切(木橋)
土橋を渡り、さらに1~2分ほど登って行くと木橋が現れます。片堀切になっているようです。
竪堀
木橋の左下は竪堀となって山裾へ延びています。
帯曲輪(空堀)と土塁
木橋の右上は、一ノ曲輪の北側を固める帯曲輪(空堀)です。
大堀切
木橋を渡り、さらに1~2分ほど登って行くと、左前方下に大堀切が見えて来ます。一ノ曲輪と二ノ曲輪を断ち切る大堀切です。
一ノ曲輪
一ノ曲輪には八幡神社が鎮座し、その手前に縄張略図の付いた説明板が設置されています。
一ノ曲輪土塁
神社の背後には。神社を取り囲むように土塁が確認できます。特に、奥の方は分厚く、櫓台でしょうか。いずれにしても、往時は櫓か何らかの建物が建っていたことでしょう。
一ノ曲輪西側の帯曲輪(空堀)①
一ノ曲輪の西側下を覗くと空堀が確認できます。
一ノ曲輪西側の帯曲輪(空堀)②
空堀へ下りて行くと、土塁の一部に丸い石が確認できます。石垣ではなさそうですが、礫にしては大きすぎるような気もしますが・・・。また、標柱には帯曲輪とありますが、どちらかというと空堀のような気がしないでもありません。
大堀切越しに二ノ曲輪を
一ノ曲輪と二ノ曲輪間は大堀切で断ち切られ、土橋が設けられています。二ノ曲輪の前面には櫓台があります。
一ノ曲輪と二ノ曲輪間の大堀切
一ノ曲輪と二ノ曲輪を断ち切る堀切は規模が大きく、堀底から二ノ曲輪土壇(櫓台)上まで高さ8mほどあるでしょう。
二ノ曲輪の堀切
二ノ曲輪の奥へ入って行くと堀切が現れます。かなり埋まってしまっていますが、はっきりと確認できます。尚、この先へも入って行きましたが、かなりの藪の上、時間もなかったので途中で引き返してきました。また、当城には他にも多くの堀切や竪堀が設けられているようです。