城址の一画に祀られた金山神社
武田信玄は刑部滞在中に三方原の大勝利の報を各国の武将に通報した
所在地
静岡県浜松市北区細江町中川
(都田川に架かる落合橋の南東100mにある小山)
形状
平山城
現状・遺構
現状:山林、神社
遺構等:曲輪、土塁、堀切、井戸
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/06/17
歴史等
阿王山紫城とも呼ばれるこの城は、三方を都田川で囲まれた要害の地に築かれた。永禄11年(1568)12月、
この地の人々がここに城柵を築いて立て籠もり、徳川家康の軍と戦ったが敗れた。その後、菅沼氏が城主として入城した。
武田信玄は元亀3年(1572)12月の三方原の合戦での勝利の後、祝田から刑部に軍を移し、翌年まで滞在した。
そして刑部滞在中に三方原の大勝利の報を各国の武将に通報したという。但し、それがこの刑部城からかどうかは不明である。
現況・登城記・感想等
都田川に架かる落合橋から見える刑部城址は、周りが全て切り立った切岸のようで、如何にも戦国時代の砦址といった感じである。
川と反対側(南東側)の金山神社方面だけが、唯一ややなだらかな斜面になっている。
まずは神社に登り、参拝をして、神社側面と裏側を見ると、帯曲輪が確認できた。
神社の建つ所は、独立した曲輪になっていたようで、主郭の山?との間を堀切?で断ち切られている。尤も、
現状を見ると堀切の必要は感じないが・・・。
その堀切の所から登り始めると、すぐに土塁や曲輪跡に出る。草は大したことはないものの、
竹藪が密生して自由に遺構を見て廻ることが出来ない。おまけに、多くの竹が枯れて腐っていたりして危ない。
それでも何とか上の方へとかなり登って行ったが、右肩に鞄を掛けての登城で、なだらかとは言っても、かなりの斜度であり、
あまりの竹の密集に恐れをなして退却した。Give Up!!
(2007/06/17登城して)
ギャラリー
遠景
周りが全て切り立った切岸のようで、
如何にも戦国時代の砦址といった感じである。
さあ登城
右の丘が金山神社、左が主郭の山?
まずは神社に登り参拝!
神社下の帯曲輪
神社側面と裏側を見ると、
帯曲輪が確認できた。
堀切?
神社の建つ所は、
独立した曲輪になっていたようで、主郭の山?との間を堀切?で断ち切られている。尤も、現状を見ると堀切の必要は感じないが・・・。
土塁
登り始めてすぐに土塁に出会うが・・・
(汗)
Give Up
(周り全てがこの状態!!)
草は大したことはないものの、竹藪が密生して自由に遺構を見て廻ることが出来ない。
おまけに、多くの竹が枯れて腐っていたりして危ない。それでも何とか上の方へとかなり登って行ったが、右肩に鞄を掛けての登城で、
なだらかとは言っても、かなりの斜度であり、あまりの竹の密集に恐れをなして退却した。Give Up!!(汗)