専修寺山門
専修寺を中心とした城郭都市(環濠集落)
所在地
三重県津市一身田町2819(専修寺)
専修寺:電話059-236-4025
形状
城郭都市(環濠集落)
現状・遺構等
現状:専修寺他
遺構等:水堀、土塁、説明板ほか
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/01/29
歴史等
この町は、弥生文化の原始時代から小さな農業集落でしたが、15世紀に専修寺(当時は無量壽院と言った)が建てられてからは、
それを中心として発展を始め、ことに16世紀からは、町の周囲に環濠を作り、専修寺を中心とした宗教都市の様相を呈するようになりました。
こういう町を一般に寺内町と申しますが、一身田はその典型と言われています。
濠(堀)は東西約500m、南北400mで、町への入口は3つしかなく、橋のたもとに門があって、夜は閉じられ、
不審な者の侵入を許しませんでした。町には住民の自治が進行し、専修寺からは商業資金の融資が自由に受けられたので、商工業が活発となり、
町は繁栄しました。また濠の外には橋向という遊郭地域も生まれました。
環濠は昔にくらべて幅が狭くはなっていますが、昔のままのところに残っており、町は静かなたたずまいを見せています。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)は、専修寺(せんじゅじ)を中心に作られた典型的な城郭都市(環濠集落)で、
今もその様子がよく残っている。寺内町は、富田林など近畿地方を中心に、何箇所かで発達したようだが、これだけよく残っているのは、
この一身田寺内町だけだろう。
周囲を取り巻く水堀跡も一部細くなっているところはあるもののよく残り、大正時代くらいから、
まるで時間が止まったかのような町の景観は安らぎを感じる。
昭和初期から戦後まもない頃に時代劇映画のロケ地として撮影が頻繁に行なわれたというのも納得できる。
専修寺は真宗高田派の本山である。さすが本山だけに、こんな田舎(失礼)にあっても山門、太鼓門、御影堂、如来堂などの建築物が見事だ。
唐門も素晴らしいようだが、改修中で見られなかったのが残念だった。
(2010/01/29訪れて)
ギャラリー
寺内町案内図(現地案内板より)
専修寺南面の土塀と山門
山門は、宝永元年(1704)の建築。寺院の門としては最高の格式で、楼上には釈迦三尊仏を安置している。
太鼓門
東面に建ち、左右に長屋が付く四重の櫓門である。最上階に太鼓が吊り下げられ、町の人々に時刻を知らせる
「時の太鼓」が打たれたが、今は法要の時にしか打たれない。最初は二階建てであったが幕末に今の形になった。
御影堂
寛文6年(1666)の建築で、親鸞聖人の木像が安置された739畳敷の全国でも屈指の大御堂である。
平成の大修理が終わり、5月には落成慶讃大法会があるそうだ。
如来堂
寛延元年(1748)の建築でm「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来像が安置されている。この建物の現物は、
写真より遥かに見事なもので、御影堂にも負けないほどだ。
釘貫門
この門から聖域であると区切られていたようで、南側には石橋が架けられ、北側は石畳が続く。釘貫門とは、
柱を立てて並べて横に貫を通しただけの簡単な門のことであり、町の入り口に設けた木戸のようなものを示すこともある。
現在はこの山門前の釘貫門だけが残るが、宝暦年間(1751~63)の木版画には他に3ヶ所矢来(釘貫門)が描かれている。
㊧黒門跡、㊨環濠(毛無川)
㊧伊勢方面の出入り口で、この門が寺内町の惣門にあたり、門の横には番所があった。尚、
高田幼稚園の門が移築された黒門であるという風説があるが、違うそうだ。㊨寺内町の周囲をめぐる堀の中で、南面は川を利用している。
川の名前が何と「毛無川}だ~」!
環濠(西面)
日本で唯一ほぼ完全な形で現存する寺内町を囲む環濠で、東西450~500m、南北400~450mある。
この西面の環濠は道路拡張のため少し狭くなっているが、土塁が残っている。
町並み
まるで、大正時代くらいから時間が止まったかのような町の景観は安らぎを感じる。
昭和初期から戦後まもない頃に時代劇映画のロケ地として撮影が頻繁に行なわれたというのも納得できる。