川俣神社への参道入口の鳥居前にたつ城址碑
南北朝時代に鹿伏兎氏に従った佐々木満喬が拠った城
別名
御霊ヶ丘陣屋(ごりょうがおかじんや)
所在地
三重県亀山市加太板屋5470、川俣神社
形状
台城
現状・遺構等
【現状】 川俣神社    
【遺構等】 土塁、空堀、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/11/15
歴史等
川俣城は、南北朝時代にこの地を領していた鹿伏兎氏(かぶとし)が築き、御霊ヶ丘陣屋(ごりょうがおかじんや)と呼ばれていた。   
応永6年((1399)南朝方に属し応永の乱に敗れた佐々木満喬が、楠木正盛と共に鹿伏兎谷に落ち延び、その後、鹿伏兎城主・鹿伏兎忠賀に属して当城を守護した。    
同19年(1412)御霊ヶ丘陣屋に内堀を構築し、さらに四方を深くするなどの城壕の整備にかかり、翌年10月に竣工した。    
同21年(1414)、伊勢国司北畠満雅が鹿伏兎城内で軍議を開き、この御霊ヶ丘陣屋を検分した際に、川俣城と改称された。    
『「サイトお城のとびら」、「川俣神社標柱」、「日本城郭大系10」より』
現況・登城記・感想等
川俣城は、加太川の北側丘陵地比高約15mに築かれ、現在は川俣神社となり、社殿裏に高さ1mほどの土塁が残っている。    
南側は加太川が天然の要害となり外堀の役割を果たし、東~北~西にかけては空堀が残っている。空堀は、上部幅約5m、深さ約5mほどあり、15世紀初頭のものとは思えないほど大規模なものである。     
東側大和街道沿いの鳥居前に城址碑が立っている     
(2011/11/15訪れて)
ギャラリー
南側から城跡(川俣神社)全景を      
川俣城は、加太川の北側丘陵地比高約15mに築かれている。南側は加太川が天然の要害となり外堀の役割を果たしという。往時は、この畑の辺りも川が流れていたのだろう。        
社殿裏の土塁      
神社東側の空堀      
東~北~西にかけて規模の大きい空堀が残っている。空堀は、上部幅約5m、深さ約5mほどあり、15世紀初頭のものとは思えないほど大規模なものである。        
神社東側の空堀(堀底から)      
空堀は自然地形っぽいが、自然地形に手を加えたものだろうか?       
神社北側の空堀      
神社の北側を通る大和街道を西に向かって行くと、左手にも大規模な空堀が見えてくる。どうやら神社の西側へと周っているようだったが、家が立ち並んで道もなく、入って行くことはできなかった。       