佐倉城跡の西隣の伊藤酒造前から城跡方面(写真右)を
智積御厨(伊勢神宮内宮の荘園)の小林郷の豪族小林氏の平時の居館
別名
桜城
所在地
三重県四日市市桜町字南垣内(伊藤酒造の東側に隣接する地)
伊藤酒造:四日市市桜町110番地
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 住宅地
【遺構等】 全くなし
満足度
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訪城日
2011/11/20
歴史等
佐倉城は、南北朝時代に当地の豪族小林丹後守重利により築かれたと伝えられる。
標高109mの一生吹山には、正平24年・応安2年(1369)に小林丹後守重利が築いた詰の城「一生吹山城(いっしょうぶきやまじょう)」があった。
170年後の天文8年(1539)、鈴鹿郡の峯盛定の攻撃を受け、小林重則は居館である佐倉城を出て、かねてより修復しておいたこの山城で対峙したが、敗れて自害した。
重則の幼少の嫡子重定は、家臣や乳母に連れられ赤水(あこず、現在の四日市市県地区赤水)へと密かに難を逃れていた。
そして、戦後32年を経た元亀2年(1571))、成長した重定は、千種氏の斡旋で佐倉へ戻り「佐倉城」を再興した。
その後、小林氏は織田氏に仕え、滝川一益の甲州武田攻めに従軍、また大阪の陣では徳川方について、亀山城主松平忠明に従い出陣した。
大坂の陣の後は、菰野藩に仕えたが、佐倉城は元和元年(1615)の一国一城令にて取り壊された。
『「サイト・桜郷土史研究会」、「一生吹山城跡説明板」より』
現況・登城記・感想等
佐倉城は、『明治17年調伊勢国三重郡桜村地誌草稿』によると、往時の佐倉城域面積は1,312坪(約4,329.6㎡)、東西29間(約52.722m)、南北29間3尺(約53.631m)で、四方には土塁と堀がめぐっていたという。
土塁敷(?)は8間(約14.544m)、高さは、9尺(2.727m)、馬踏(土塁上の人馬の通行する道路)は4間(7.272m)、堀濶(堀幅?)は3間(約5.424m)で、深さは不詳という(サイト・桜郷土史研究会より)。
佐倉城は、伊藤酒造の東側に隣接する地(桜町字南垣内)にあったそうだが、今では住宅が密集し、往時の面影は全くない。
歴史を感じさせる伊藤酒造さんの建物がかっこよかったので、TOP写真に掲載させてもらった。建物の奥が城跡である。
(2011/11/20訪れて)