富田館跡に建つ富田幼稚園
伊勢平氏の首領平信兼の子富田家資の居館
所在地
三重県四日市市富田1丁目24-26(富田幼稚園)
富田幼稚園:電話059-365-0942
形状
館
現状・遺構等
【現状】 富田幼稚園
【遺構等】 全くなし
満足度
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訪城日
2011/11/25
歴史等
富田館は、寿永3年(1184)に伊賀守護の大内惟義を攻撃し、平田家継らと共に捕えられた富田家資(助)の居館である。
富田家資は、伊勢平氏の首領・平信兼の子であり、この後も、伊勢平氏による鎌倉側への反抗は根強く続けられている。
元久元年(1204)、伊賀では平氏の残党平惟基の子孫、伊勢では家資の子基光、孫基度らが再び挙兵し、伊賀・伊勢の守護首藤経俊を追放したが、首藤氏に代わった守護平賀朝雅に平定された(三日平氏の乱)。この後、伊勢平氏の反乱は鎮圧されていった。
その後、文安3年(1446)、信濃国松本から来た南部頼村が当地に城を築き、北畠氏に属して頼宗・頼武・頼連が居城したが、兼綱に至り、永禄11年(1568)に織田信長に滅ぼされたとも、同12年に木造城の戦で戦死し、廃城になったともいわれる。
尚、富田氏の館と南部氏の館が同一のものであるかどうかは不明である。
『日本城郭大系10より』
現況・登城記・感想等
富田館跡は、私の出身校・四日市高校のすぐ近くだが、勿論、当時は全く知らなかった。
富田館は、往時は70m×60mの曲輪を有し、周囲を土塁と堀がめぐっていたようだが、今は住宅地の真ん中にある富田幼稚園や富田小学校などになり、往時の面影は全くない。
しいて言うならば、館跡の南側を流れる十四川が往時は堀の役目をしていたのかなと思うくらいだ(苦笑)。
(2011/11/25訪れて)
ギャラリー
十四川
城跡遺構といえば、館跡の南側を流れる十四川は往時は堀の役目をしていたのかなと思うくらいだ(苦笑)。十四川は、我が母校(四日市高校)の南側から延びる川で伊勢湾へと流れ出る。在学中から、川の両側の桜並木は結構有名で、その季節にはなかなかの光景だった。城跡とは関係ないですね。失礼しました( ̄ー ̄;