堀切に架かる土橋と天守台跡(右上)
桑名と近江を結ぶ要衝の地に築かれた城
読み方
たびかじょう
所在地
三重県三重郡菰野町田光字城山
【アクセス】
国道306号線で菰野町役場から約5km北進し、田光地区へ入りしばらく進むと田光川へ出る。川を渡ってすぐの路地を左折し、200mほどの所に「多比鹿(たびか)神社」がある。この神社の裏山が城跡である。
神社の北側の道路を歩いていくと左手の藪にちょっとした入り口らしき隙間?があるのでそこから入っていった。神社の裏から入って行く事もできるが、こちらがお薦めかも。
形状
平山城(標高約110m、比高約30m)
現状・遺構等
【現状】山林
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、石積、天守台?、井戸
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/01/24
歴史等
田光の地は、桑名から当地を経て八風峠を越えて近江八日市に至る八風越えと、員弁(いなべ)と亀山とを結ぶ街道の分岐点にあたる交通の要衝である。
田光城は、永延年間に田光隼則が築き、姓を梅戸と改めた。梅戸(田光)氏は北勢53家の一つで、田光城は伊勢別街道を通る関銭目当ての城であろうか?
梅戸氏は、戦国時代に近江佐々木氏の一族六角高頼の四男を嗣子として梅戸高実(一説に高貫)と称した。梅戸高実は、通行税徴収のために桑名との中間地にも梅戸城(いなべ市大安町)を築いたと伝えられる。
『日本城郭大系10参照』
現況・登城記・感想等
田光城跡は、登城前の予想に反して、かなり規模が大きい上、曲輪・土塁・天守台・空堀・堀切・土橋等々の遺構がほぼ完存であった。しかも、この地区の城跡には珍しく、頭大の石による石積みも見られる。
城跡は半島状丘陵先端部にあり、西側丘陵地を堀切で断ち切り、東へと各郭が塁段に形成されている。堀切は、北半部が幅35mと広く、南半部が幅16mで、深さは約4mと大規模なものである。
堀切の東側にある55m×50mの郭が主郭で、周囲を高さ1m前後の土塁(一部、石積みも確認できる)で囲まれ、西方部には15m×20m、高さ6mの天守台跡がある。また、北の方には石で組まれた井戸跡もある。
主郭の東方には一段低く、土塁に囲まれた小郭が6ヶ所ある。
大手道は、これら郭の南側を通っており、その堀底道にも石積みが確認できる。
また、堀切の西側には長い土橋が延びており、その両側も段郭状になっている。その土橋にも石積みが確認できる。
これほど見事な城跡とは想像だにしていなかったので大満足の登城であった(^^)
(2010/01/24登城して)
ギャラリー
田光城鳥瞰図(余湖くんのホームページより)
田光川越しに城址全景を
田光川の向こうに多比鹿神社があり、その裏に続く山が田光城址である。
登城口??(^^)
神社の東側の道路を北へ歩いていくと左手の藪にちょっとした入り口らしき隙間?があるのでそこから入っていった。神社の裏から入って行く事もできるが、こちらがお薦めかも。
大空堀と郭の壁
藪の隙間?から一歩踏み込むと、そこは別世界だ!右手にいきなり大空堀が現われ、正面には郭の壁が立ちはだかり、一気にテンションが上がる(^^)
二重空堀
空堀に沿って歩いて行くと、堀底道となり、先ほどの大空堀との二重空堀となる。この辺りの光景は二重空堀と共に土塁や郭の壁とのコラボが実に絵になる(^^)
虎口から堀底道を
空堀に沿った道を進むと、途中、左手に虎口があり、そこから堀底道を主郭へと進む。この堀底道が大手道のようだ。堀には、ところどころに石積みが確認できる。
主郭
右手に幾つかの郭を見ながら西進すると主郭へ出る。主郭は50m×55mの広さで、周囲を高さ1m前後の土塁で囲まれている。
主郭をめぐる土塁
土塁にはところどころに人の頭大の石による石積みが見られる。当写真は、主郭北側の土塁。
井戸跡
主郭の北側には井戸跡が残っている。ほとんど埋もれてしまってはいるが、石で組まれているようだ。
伝天守台
主郭の西側には広さ15m×20m、高さ6mの天守台とも伝わる櫓台がある。天守台の北側が虎口(写真右)になっているようで、西側の堀切に架かる土橋へ下りて行ける。
天守台上の墓
天守台上の墓は、多くのサイトでは城主の墓となっているが、地元菰野町のホームページによると、田光村の庄屋であった諸岡家の墓地とのことである。
天守台西下の堀切と土橋
天守台北側の虎口から見下ろした写真である。日本城郭大系によると、ここまでを城域としているが・・・?
天守台北側の虎口と堀切&土橋
土橋を渡り、振り返って撮ったものである。右上が天守台跡。
堀切の西側に延びている一気駆けのような土橋
この土橋?にも石積みが確認できる。日本城郭大系によると、空堀(堀切)より西側は城域としていないが、この一騎駆けのような長い土橋で区分けされた両側は段郭のようになっており、少なくとも何らかの施設はあったと思われる。