伊勢 下野城(四日市市)

鉄道で分断された城址

足利尊氏に仕えた江見名氏の居城

別名

源治山城(げんじやまじょう)、山城城(やまじょうじょう)、下野山城

所在地

三重県四日市市山城町(やまじょうちょう)字源治山
信明寺の西100~150mの丘陵が城址。駐車場は、信明寺の前(南)の駐車場を拝借した。

形状

平山城

現状・遺構等

現状:山林、宅地
遺構等:土塁、空堀、石碑、標柱、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2010/01/25

歴史等

下野城(しものじょう)は、建武年間(1334~1336)に足利尊氏に仕えて数々の戦功のあった江見名藤七郎秀宗がこの地を賜り、 以後数代が居城したが、永禄11年(1568)、織田信長に滅ぼされた。
昭和6年に三岐鉄道建設により、城跡の中心部を分断され、現在、土塁・堀・郭の一部を残すのみである。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

下野城址は朝明川右岸の源治山という標高50mの丘陵上に位置するが、三岐鉄道で分断されている。
西側の丘陵主郭頂上部は住宅地になっており、藪になっている斜面へも入って行くところが分からなかったが、 その南東部約200mを通る道路端に「源治山遺跡」の説明板と並んで「山城城」の説明板が建てられていた。 説明板の裏の山林に入っていくと空堀らしきものがあったが・・・?いずれにしても、城の外郭部辺りなのだろう。
一方、東側の丘陵裾には、高さ30cmほどのごく小さな標柱が立ち、そのそばに何とか登って行けそうな場所を見付け、入って行こうとしたら、 藪の中から「ゴソゴソ」という音が聞こえたので、思わず逃げてきてしまった(汗)
説明板にある「城址に立つ石碑」というのは何処にあるのだろう?
(2010/01/25訪れて)

ギャラリー

三岐鉄道で分断された城址
城址の南方の住宅地の中にある児童公園から撮影。左側が東丘陵で、 頂部の平坦地は完全に宅地に埋もれてしまっている。

主郭部南東の道端に見付けた説明板
主郭部から南東へ200mほど離れた道路端に「源治山遺跡」の説明板と並んで「山城城」の説明板を発見。 この辺りが、城の最外郭部にあたるのであろう。
 

空堀??
説明板の裏の山林に入っていくと空堀らしきものがあったが・・・?

東側丘陵
東側の丘陵裾には、高さ30cmほどのごく小さな標柱(左写真中央下と右写真)が立ち、 そのそばに何とか登って行けそうな場所を見付け、入って行こうとしたら、藪の中から「ゴソゴソ」という音が聞こえたので、 思わず逃げてきてしまった(汗)
 

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