河内 若江城(東大阪市)

神社祠前に他の記念碑などと一緒に立てられている若江城址碑

河内の武士統率のために築かれた北朝方の拠点、後に京を追われた足利義昭が入城

所在地

大阪府東大阪市若江北町・若江南町
【アクセス】
「巨摩東信号」から200~300mほど東進すると、道路右手に「若江小学校」があり、さらに少し進むと祠と石碑が寄せ集められ、その中に若江城跡の城址碑もある。道路反対(北)側には、若江公民館、若江幼稚園があり、そこにも説明板と石碑がある。
車は、その200mほど南にある「若江鏡神社」の境内を拝借しました。尚、「若江鏡神社」のすぐ北の「蓮城寺」にも、お願いすれば駐車可能だと思います。
若江小学校:東大阪市若江南町2丁目9−54、電話06-6721-0292
若江鏡神社:東大阪市若江南町2丁目3-9、電話06-6721-2340
蓮城寺:東大阪市若江南町2丁目3-7、電話06-6721-6183

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 若江公民分館、若江幼稚園、若江小学校、宅地等
【遺構等】 石碑、説明板のみ

満足度

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訪城日

2013/11/21

歴史等

若江城は、南北朝時代の争乱期(14世紀末)に、室町幕府の命令により河内国内の武士の統率と取締りのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳2年(1382)から天正元年(1573)までの約2世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たした。
畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就の義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永録11年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主としたが、義継は元亀3年(1572)松永久秀らと信長を裏切り、高屋城主畠山高政を攻め、高屋城の周りに砦を築いた。しかし、信長が佐久間信盛・坂井尚政・柴田勝家らを派遣して砦を取り囲んだため、義継は若江城に撤退を余儀なくされた。
元亀4年(1573)4月に武田信玄が死去すると、信長包囲網は織田軍の反攻を受けて一気に瓦解し、朝倉義景や浅井長政らは信長に討たれた。
そして、天正元年(1573)7月、槙島城に立て籠もった信長包囲網の黒幕である第15代将軍・足利義昭を攻め落とし、京都から若江城の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追放した。
11月5日、義昭が堺へと移ったことを確認した信長は11月16日若江城を攻め、義継を自刃させた。
その後、若江城は、石山本願寺攻撃の拠点として使われたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになった。
『「現地説明板」、「ウィキペディア・若江城の戦い」ほか参照』

現況・登城記・感想等

若江城は、TOP写真の碑が立つ辺りが、主郭のあったところといわれています。道路北側の若江公民分館に説明板があり、その隣の幼稚園のフェンスの内側にも城址碑があります。
説明板に「若江城の跡は、昭和47年以来の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民分館を中心として、周辺から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や、瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。」とありますが、今は、地上には遺構は何も残っていません。
尚、この近くが、大坂夏の陣で木村重成が陣所を置いた場所であり、蓮城寺には位牌堂が祀られ、堂内に武者姿絵や位牌が安置されており、また、近くには木村重成像(若江南町1丁目8)や木村重成の墓(八尾市幸町6丁目)もあります。
(2013/11/21訪れて)

ギャラリー

他の記念碑などと共に寄せ集められた中に立つ若江城址碑
IMG_4513

発掘状況(現地説明板より)
IMG_4510

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