摂津 高槻城(高槻市)

三の丸跡に築かれた模擬天守台

キリシタン大名高山右近の城

別名

入江城、久米路山龍ヶ城

所在地

大阪府高槻市城内町
【アクセス】
槻の木高校が本丸跡で、その東側に高槻城跡公園があり、槻の木高校の北側に有料駐車場があります。
槻の木高校:高槻市城内町2−13、電話072-675-0681

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 高槻城跡公園、槻の木高校ほか
【遺構等】 模擬天守台、土塁?、天守台と本丸御門の基礎石、復元水堀?、移築門、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2014/03/26

歴史等

高槻城は、10世紀末、近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に館を築いたのが始まりと伝えられているが、定かではない。
高槻城が記録に登場するのは、南北朝期の14世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。
永禄12年(1569)には、三好氏と共に織田信長に抗して敗れた入江春継に代わり、和田惟政(これまさ)が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。
キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
しかし、その高山右近も豊臣秀吉によって、天正13年(1585)に播磨船上城(明石市)に移封された。
その後は、豊臣氏、徳川氏の直轄となり、元和元年(1615)の大阪夏の陣後は、内藤・土岐・松平・岡部など親藩や譜代大名が城主となった。
そして慶安2年(1649)、永井直清が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
明治7年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城跡公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。
『「現地説明板」、「日本城郭大系12」より』

現況・登城記・感想等

高槻城跡はキリシタン大名として有名な高山右近の城でもあり、訪れてみたいと思っていました。
今では、市街地に埋もれてしまい跡形もないが、三の丸跡(厩曲輪跡も含むかも)辺りが城跡公園となり、模擬天守台と水堀が造られ、その脇に高山右近像が立っています。
本丸跡は槻の木高校の敷地となり、城跡公園との間に天守台と本丸御門の基礎石の石組みが設置されています。
槻の木高校の北側が二の丸跡ですが、駐車場となり、その西側に土塁がありますが、果たして何処まで往時のものかは分かりません。
尚、公園から北へ約500mにある本行寺に高槻城の城門(高麗門形式)が移築されています。
(2014/03/26登城して)

ギャラリー

高槻城幕末期の縄張図(現地説明板より)
IMG_8145

天守台や本丸御門の基礎石
二の丸跡に設けられた駐車場に車を停めて城跡公園へ向かうと、公園入口右手に縄張図付きの説明板が立ち、その後ろに城址碑と天守台や本丸御殿の基礎石(根石)が置かれています。尚、昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになったそうです。
高槻城根石

模擬天守台と水堀①
城跡公園へ入って行くと右手前方に模擬天守台と水堀が造られています。天守台角には、鷺が一羽(写真中央やや左)とまっていました。
IMG_8151

模擬天守台と水堀②
高槻城跡は、市街地に埋もれてしまい跡形もないが、三の丸跡(厩曲輪跡も含むかも)辺りが城跡公園となっています。
高槻城跡公園

高山右近像
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃に、摂津高山で生まれたとされている。右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵、荒木村重と結び、惟政の遺子惟長を追放し、元亀4年(1573)右近は高槻城主となった。摂津国主である荒木村重が織田信長に反旗を翻した天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質に出していた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめた。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれる。その後、右近は、山崎合戦には、秀吉に仕え功績を挙げた。右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間だった。右近は、千利休の七哲の1人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれている。天正14年頃、秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していた。キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めた。当時2万5千人の領民の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれている。秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されている。禁教令を出した徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けた。マニラ到着後、40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月5日に亡くなった。(現地説明板より)
高槻城高山右近像

土塁?
槻の木高校の北側(駐車場の西側)には二重の土塁がありますが、どこまでが往時のものかはわかりません。
高槻城土塁

移築城門
公園から北へ約500mにある本行寺に高槻城の城門(高麗門形式)が移築されています。
高槻城城門

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