摂津 今城(高槻市)

今城(今城塚古墳)周囲をめぐる内濠

三好長慶を攻めるために織田信長が今城塚古墳を改変して築いた城

読み方

城としては「いまじょう」と呼ぶべきなのかもしれませんが、町名も古墳名も「いましろ」です。

所在地

大阪府高槻市郡家新町
【アクセス】
今城塚古代歴史館の裏(南)が今城塚古墳公園で、今城塚古墳が城跡です。歴史館の駐車場があります。 今城塚古代歴史館:高槻市郡家新町48-8

所要時間

今回の見学時間は40分ほど

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 今城塚古墳公園
【遺構等】 曲輪、堀、堀切?

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2015/06/07

歴史等

今城塚古墳は、考古学者の間で真の継体天皇稜ともいわれている。
永禄11年(1568)に、織田信長が三好長慶を攻めた際に、同古墳を改変して城を築いたといわれる。
高槻市立埋蔵文化財調査センターが平成9年から同古墳の調査に取り組み、後円部南側の内濠と外濠を調査した際に、深さ40cmの外濠部から種子島銃の鉄砲玉が1個見付かった。
また、同センターによると、これまで明らかになった内濠の埋立ての際に用いられた信長独特の工法とともに、信長による古墳の改変を裏付ける史料であるとしている。
『産経新聞記事(2000年1月21日)より』

現況・登城記・感想等

今城塚古墳(今城)は、見事に綺麗に整備され市民の憩いの公園となり、当日も多くの家族連れが訪れ、弁当を拡げたりしていました。
内濠と外濠が完存(復元?)です。特に内濠部は見応え満点で、前方後円墳の前方部周囲の半分は水堀となっています。
古墳上も遊歩道が設けられ散策ができますが、前方部と後円部の間が堀切のようになっていましたが、これが信長が改変したものの一つでしょうか?
また、側部の1箇所に出丸のような部分がありましたが、これもそうかも??
今城塚古墳は、周囲を大規模な二重濠で囲まれており、信長なら、これを城として利用したのも頷けますね(笑)。 
(2015/06/07訪れて)

ギャラリー

今城塚古墳の絵(高槻市ホームページより)
今城塚古墳(今城)は、見事に綺麗に整備され市民の憩いの公園となり、当日も多くの家族連れが訪れ、弁当を拡げたりしていました。内濠と外濠が完存(復元?)です。特に内濠部は見応え満点で、前方後円墳の前方部周囲の半分は水堀となっています。
尚、当絵図は、高槻市教育委員会教育管理部文化財課の許可を得て掲載しております。
今城絵図

正面に今城塚古墳が
今城塚古代歴史館の裏(南)が今城塚古墳公園で、今城塚古墳が城跡です。歴史館見学後、古墳へ向かうと正面に見えて来ますが、あまりにも規模が大きくて全体像が撮れません。手前部分が外堀で、その向こうの内濠との間には多くの埴輪の複製が陳列されています。
尚、公園へ向かう途中には、古墳に関する多くの新聞記事が貼られています。
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後円部分周囲をめぐる内濠
内濠は随分広くて、幅30m以上はあるでしょう。後円周囲の濠は、芝生広場になっており、弁当を拡げた家族連れが・・・。
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前方部分周囲の内濠(水濠)
前方部分周囲半分は水濠になっています。
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聖域を表す内堤の垣根
内濠(水濠)周囲の内堤には円筒埴輪列がありますが、これは聖域を表す垣根で、邪悪な霊などを立ち入れなくする結界なのだそうです。
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外濠
内堤周囲を取り囲む外濠も見事に完存(復元)です。外濠は、内濠と比べるとかなり浅いです。
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出丸?
前方部と後円部の境目側面に、出丸のような地形がありましたが、これは信長により改変されたものでしょうか?
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堀切?
古墳内には遊歩道が設けられています。前方部と後円部の間は、浅くなっていはいるものの堀切跡のような・・・?これも、信長による改変でしょうか?
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古墳上から内濠(水濠)を
臨時で築いた城とはいえ、こうして見ると、なかなかの防御ですね。
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