播磨 苔縄城(上郡町)

赤松円心館跡から苔縄城遠景を望む

赤松円心が大塔宮令旨を奉じ挙兵した城

所在地

兵庫県赤穂郡上郡町苔縄

形状

山城(標高411m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石碑

満足度

?????

歴史等

苔縄集落の西にそびえる標高400mの高峰の頂上にある小さな平坦地が苔縄城である。三方が山続きで、東側山麓に千種川が流れ、かつて旧因幡街道が通っていた。
平地からの比高も大きく、山頂が近づくにつれて岩場もあり、要害の地としての条件を備えている。
城主は「太平記」に「赤松円心則村」とある。円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「赤松城に集まる」ように伝えたといわれる。その時の赤松城とは、この苔縄城である。
しかし、「播磨鑑」には「赤松円心の三男則祐は元徳3年(元弘元年、1331)に大塔宮の令旨を受けて、ここに城を築き、義兵を挙げて軍功があり、領国安穏であった」と記されている。
また別説として「城主ハ伊豆守祖妙善入道トモ」、あるいは「一説、則祐感状山ニ居住ノ後、又、此城ヲ築キ居ス」、さらに「子息義房其譲ヲ受ケテ居住ス」など、さまざまに記されているが、「太平記」が記すように、初代城主は赤松円心(則村)とするのが正しいようである。
山麓にある赤松則村が建立した赤松氏の氏寺「法雲禅寺」が、この山城の「館跡」であり、則村の「赤松城」は、その館、つまり法雲禅寺跡と推定される。
『日本城郭大系12より』

現況・登城記・感想等

赤松円心館跡を訪れたら、居館跡の広場北側の崖下の藪の中に苔縄集落から移されたという立派な苔縄城の城址碑が建てられていた。
苔縄城は、白旗城の支城とはいえ、千種川を挟んで南西約1.5kmほどにある苔縄集落の背後の愛宕山一帯に築かれていたという城である。随分離れたところに移したものだ。
今回は、時間もなく登城できなかったが、「日本城郭大系12」によると、山頂の城跡には横8m×縦22mの平地遺構が残っている。この平地は1mの段の上にあって、周りが一段低く、幅1mの平坦地が周囲を取り巻いているのみで、歴史上有名な割には簡単で貧弱な構造で、砦跡とも考えられるし、また短期間しか使用されなかったとも考えられる。」と紹介されている。
しかし、「ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)」によると、苔縄城跡と言われている苔縄集落の背後の標高369mの「湧金峰(わきがみね)」、更にその背後の標高411mの「愛宕山」の一帯は、自然地形のみで人為的な普請の跡は全く見られず、苔縄城の存在そのものが疑問視されるとあるが、果たしてどうでしょうか?
(2011/11/14)

ギャラリー

赤松円心館跡に建つ城址碑
赤松円心館跡の広場北側の崖下の藪の中に苔縄集落から移されたという立派な苔縄城の城址碑が建てられている。苔縄城は、白旗城の支城とはいえ、千種川を挟んで南西約1.5kmほどにある苔縄集落の背後の愛宕山一帯に築かれていたという城である。随分離れたところに移したものだ。

苔縄城址碑

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