山城 填島城(宇治市)

住宅街の中の児童公園に立つ城址碑と説明板

織田信長に叛旗を翻した足利義昭が挙兵し籠ったが、落城し室町幕府滅亡

所在地

京都府宇治市槙島町薗場29-3
【アクセス】
任天堂宇治工場の北約150mほどにある住宅街の中の公園に石碑と説明板が立っています。住所をナビで指定すると到着すると思います。尚、決して道が広くない上、住宅が密集しているので駐車に困りました。勿論、駐車場はありません。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 宅地、公園等
【遺構等】 石碑、説明板

満足度

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訪城日

2015/06/07

歴史等

槇島城のあった地は、旧宇治川に囲まれた防御には最適の地であったと同時に宇治川の渡河地点にもあたり軍略上の要衝の地であったという。そのため、中世の武将の京都への出入りの際の拠点として重視され、しばしば合戦の地となった。
室町時代から安土桃山時代にかけて、填島城は足利将軍家の家臣真木島氏が本拠としていた。
元亀4年(1573)、織田信長に叛旗を翻した室町幕府15代将軍足利義昭が自らこの城に篭り挙兵したが、信長軍勢の豊臣秀吉・明智光秀・柴田勝家・稲葉一鉄らから撃をうけ、義昭は真木島昭光等と河内国へ逃亡した。これにより、城は開城するとともに、室町幕府はこの地で滅んだ。
その後、信長や秀吉によって城は管理されたが、文禄3年(1594)頃廃城になったと考えられている。
『「現地説明板」、「日本城郭大系11」参照』

現況・登城記・感想等

槇島城のあった地は、豊臣秀吉が伏見城築城に際して宇治川の流路を変えるまで、旧宇治川が分流する中洲になっていたと考えられ、宇治川に囲まれた防御には最適の地であったと同時に宇治川の渡河地点にもあたり軍略上の要衝の地であったという。
しかし、今ではすっかり宅地に埋もれてしまい、小さな児童公園の入口付近に石碑と説明板が立っているだけです。
(2015/06/07訪れて)

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