近江 水口岡山城(甲賀市水口町)

本丸北面の切岸と一部残る石垣

甲賀破儀後、甲賀郡支配の拠点として中村一氏により築かれた城

別名

水口城

所在地

滋賀県甲賀市水口町(古城山)
【アクセス】
水口小学校の西100m(国道307号線沿い)に専用駐車場(古城山の西麓になる)がある。そこから古城山へ登る道があり、石碑と説明板が立っている。登城口は、他に城山中学校の南側にもあるが駐車場はない。
水口小学校:水口町本町1-2-1、電話0748-62-0121

所要時間

登城口から主郭(Ⅰ郭)まで16~17分ほど、今回の見学時間は1時間10分ほどでした。

形状

山城(標高283m、比高約100m)

現状・遺構等

【現状】県立自然公園郷土の森
【遺構等】曲輪、土塁、石垣、虎口、堀切、空堀、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2010/02/06

歴史等

戦国時代、甲賀郡は甲賀郡中惣と呼ばれる同盟体が形成されていた。郡中惣は織田信長の侵攻によって弱体化し、天正13年(1585)羽柴秀吉により解体されてしまった(甲賀破儀)。
その後、甲賀郡に領地を与えられたのは、秀吉の腹心で、甲賀武士・滝氏の一族出身とも云われる中村一氏である。
一氏は、秀吉の命を受け、甲賀郡の支配拠点として、古城山(大岡山)に本格的な城を築いた、これが水口岡山城であり、往時は単に水口城と呼ばれていた。
築城にあたっては、三雲城(湖南市)、大溝城(高島市)、矢川神社別当寺教覚坊・円乗坊(甲賀市甲南町)等から資材が運ばれたと云われる。
天正18年(1590)、一氏は小田原の役の戦功により駿府城(静岡市)に転封され、代わって増田長盛が入城、さらに文禄4年(1595)には長束正家が入城した。長盛も正家も豊臣家五奉行を務めた人物であり、この地が豊臣政権にとって重要な地と認められていたのであろう。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、正家は西軍に与して敗れ、帰城したが、甲賀武士池田備中守に攻められ落城した。城は東軍に接収され、やがて廃城となった。
寛永11年(1634)、水口岡山城の西方約1kmの位置に徳川氏によって水口城が築かれたが、この時に、水口岡山城から石垣が搬出されたと云われる。
『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」、「日本城郭大系11」等参照』

現況・登城記・感想等

水口岡山城は野洲川右岸の独立丘陵古城山に位置する山城で、今は「県立自然公園郷土の森」として綺麗に整備され散策しやすくなっているが、その整備のやり方は城址としては??
縄張は、東西に延びた尾根を削平し、主郭を中心に西側に西郭が、東側に二郭・三郭・四郭が連郭式に繋がり、それぞれが堀切で遮断されている。主郭から三郭の下にかけては通路状の帯郭がある。主郭の南側山腹には高低差を利用した枡形虎口がある。
城山の周囲は急峻な断崖になっているが、不規則に竪堀が設けられ、さらに郭の側面は削られて急傾斜の切岸となっている。
また主郭は総石垣であったと考えられているが、それを裏付けるように北面には石垣が一部残存している。
このように、水口岡山城址は、中世の城郭では多用されたが、織豊期から近世にかけて、次第に淘汰されていった堀切や竪堀が多く残ると同時に、石垣や技巧的な虎口や天守台と考えられる遺構が共存する。中世城郭から近世城郭への過渡期の城と言えるであろう。
(2010/02/06登城して)

ギャラリー

縄張図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
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登城口
国道307号線沿いにある専用駐車場に車を停めて、古城山の西麓から登城する。ここには石碑と説明板が設置されている。益々雪がはげしく降り始め、気温もどんどん下がり1℃。同行の増っさんもマフラーまでつけて寒さ対策はバッチリ。
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西郭
整備された道を登り始めて15分ほどで、西郭へ着くと、正面に主郭が見えてくる。
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主郭と西郭間の堀切
遊歩道整備で土橋が架けられ、主郭側の切岸部分は改変されているそうだ。主郭側は堀底から10mほどある。
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石垣見学コース
上写真の階段を登って行くと、左手に「石垣見学コース」なんてのが現われる。主郭帯曲輪を通って行くようだが、取り敢えずは、主郭を目指して、真っ直ぐ登って行く。
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本丸櫓跡?or天守台?
階段を登りきると主郭である。主郭入口(最西端)には「展望広場」と書かれた模擬冠木門が建ち。左手が少し高くなっている。紀念碑の横に20~30cmほどの白い小さな杭が立ち、「伝本丸櫓跡・天守とする説あり」とあった。
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主郭(Ⅰ郭)
主郭(Ⅰ郭)は、東西120m×南北25mほどの非常に細長い郭であるが、かなり改変されていそうだ。
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伝天守台跡
主郭の最東端もやや高くなった土壇が残り、ここにも白くて小さな杭に「伝天守」とあった。それにしても、これほど良好に遺構が残る城跡なのに、随分チャチな案内柱だ。
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主郭北面(北西部)の石垣
一旦、先ほどの「石垣見学コース」と書かれた模擬冠木門に戻り、帯曲輪を通って、北側へ廻った。切り取った木の枝と雪に隠れた石垣を発見。それにしても、こんなところに木の枝を置きっ放しにするとは(怒)
僅かに残った石垣は兎も角、ここから眺める主郭(Ⅰ郭)の切岸は見事で、明らかに近世の城郭の形をしている。往時は、高石垣が築かれていたのだろう。ここにも「本丸石垣跡」と書かれた、例のチャチな白い杭が草に隠れて立っていた。
本来は、ここから主郭下の細い帯曲輪を通って東の方へ行けるようだったが、木の枝が邪魔なのと雪で滑りやすいようだったので、主郭の上を通って行った。
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主郭北面(北東部)の石垣
こちらの石垣は、よ~く注意をして見ないと見逃すほどだ。
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主郭と二郭間の大空堀
この大空堀は、良好に残り、また綺麗に整備されている。幅は20mほどあり主郭上との高低差は10m近くあるのでは?
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二郭
南北30~35m、東西40~50mほどの広さがある。
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二郭と三郭間の堀切
この堀切は、幅7~8m、深さ約4mほどあり、二郭と三郭を完全に断ち切っている。
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三郭
南北約30m、東西約60mほどの広さである。
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三郭から四郭を見下ろす
三郭と四郭との高低差は10m以上あり、往時は、その間も堀切で断ち切られていたと思われるが、かなり埋まってしまい僅かな窪みになってしまっている。
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三郭と四郭間の堀切
かなり埋まってしまっているが、堀切跡であるのは分かる。
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四郭から三郭を見上げる
四郭から見上げる三郭の切岸は15mはあるのではと思われる比高差があり迫力満点だ。
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四郭北東部の竪堀
この竪堀は、四郭から山麓まで落ちていっているものである。当写真はその竪堀が山腹から四郭上まで伸びているものである。
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こちらは、上写真の竪堀が山腹から山麓へ落ちていっているものであり、当竪堀がかなりの規模の規模を誇るものであるのがよく分かる。
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