薙刀池と模擬櫓などの城郭風建物
大和国人小泉氏の城跡に片桐且元の弟貞隆が構えた陣屋
別名
片桐城、小泉陣屋(元和3年以降)
所在地
奈良県大和郡山市小泉町2252(高林庵)
*周囲は、道路が狭い上に、近くに駐車場や駐車スペースがないので、県道123号線沿い約400mほど西にあるホームセンターの駐車場を拝借した。
形状
平城(元和3年以降、陣屋)
現状・遺構等
【現状】 宅地
【遺構等】 移築現存門、模擬櫓、水堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2011/11/15
歴史等
小泉城は、築城年代は定かではないが室町時代に大和国人の小泉氏が築城した。
15世紀末まで越智方に属して、筒井氏と対立し、長禄3年(1459)には筒井順永に攻められて一族の多くが自刃し、小泉城は破却された。また、文明7年(1475)にも落城し、その用材を筒井城の柱に使われたという。
16世紀初頭以後、筒井氏が越智氏を圧倒すると、筒井氏に属したようで、天文年間(1532~1555)小泉秀元が筒井順昭の姪を娶り、以後は筒井氏の麾下として重きをなした。
天正12年(1584)大和郡山城に豊臣秀長が入った際、小泉城には家老羽田長門守が入城した。
元和元年(1615)の大坂夏の陣の後、茨木城主・片桐且元の弟・片桐貞隆が、1万6千石で入封し、元和3年、貞隆は小泉城跡に陣屋を構えた。以後、片桐氏が11代続き明治を迎えた。2代藩主・片桐石見守貞昌は、茶人として有名で茶道石州流の祖である。
尚、片桐且元は「大坂夏の陣」の後、摂津茨木と大和龍田の双方で4万石を領して茨木城を居城としたが、20日ほどで突然の死を遂げている。これには病死説もあるが、秀頼を救うことができなかった責任(且元は、大坂の陣で家康に味方する代償として、秀頼の助命を嘆願していたといわれる)を感じて、自殺したとも言われている。
後嗣の孝利は大和龍田へ移ったが無嗣が2回ほど続いて、且元の家系は元禄7年(1694)に断絶した。
『日本城郭大系10他参照』
現況・登城記・感想等
城(陣屋跡)の北西部の一部は、茶道石州流の家元片桐氏宅(高林庵:こうりんあん)となって、今も殿様の末裔が住んでおられます。
その南側には、溜池となっている「薙刀池」が残り、堀を挟んで二層復興櫓や城郭風の建物が建てられている。薙刀池の東の方にも「お庭池」が溜池として残っている。
地元の方の話によると、「お庭池」の東から北へ向かって水堀(往時の外堀)が残っていたそうで、往時の城要図を見ると、陣屋とはいえ、かなりの規模を誇っていたようだ。
尚、「薙刀池」の南端から南に徒歩4分ほどに小泉神社があるが、この神社の表門は、小泉陣屋の城門を移築したものである。
また、高林庵から2~300mほど東にある公園内や交番の近くに石碑が建てられている。
(2011/11/14訪れて)
ギャラリー
薙刀池前から復興(模擬?)二重隅櫓を
模擬隅櫓とはいえ、お堀との光景は、やはりよく似合う。
薙刀池前から高林庵内に築かれた城郭風建物を
二重隅櫓と土塀を東側の道路から
高林庵(こうりんあん)
高林庵は、片桐貞昌の父貞隆が小泉に陣屋を築くときに、薙刀池を利用し屋敷を設けたのが始まりとされる。今も、石州流茶道宗家の本部であり、片桐家の居宅ともなっている。通常は非公開ではあるが、見学希望者は、同住所の財団法人高林庵に書面で相談すれば見学できる可能性もあるようで、問合せは、電話0743-52-3016とのことである。
片桐稲荷神社
居宅内には片桐稲荷神社が祀られているが、片桐稲荷神社は小泉神社の摂社でもあるようだ。
お庭池
薙刀池の東の方にも「お庭池」が溜池として残っている。
小泉神社に移築された現存城門
「薙刀池」の南端から南に徒歩4分ほどに小泉神社があるが、この神社の表門(高麗門)は、小泉陣屋の城門を移築したもので「城門」と書かれた表札が付いている。