美作 院庄館(津山市)

館(作楽神社)の三方をめぐる土塁

鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館

読み方

いんのしょうやかた

所在地

岡山県津山市院庄、作楽公園(作楽神社)
【アクセス】
国道179号「院庄インター」信号を西へと県道206号に入り、450m程西進すると右手に作楽公園(作楽神社)があり、この付近一帯が館跡です。
中国自動車道「院庄IC]を出て、左(南東)へ向かうと、右手に「作楽神社」の大きな看板が見えるので、すぐ分かると思います。神社に広い駐車スペースがあります。

形状

現状・遺構等

【現状】 作楽公園(作楽神社)
【遺構等】 土塁、井戸?、標柱、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2013/11/23

歴史等

院庄館は、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館です。
ここはまた、「太平記」によれば、正慶元年(元弘2年、1332)に元弘の変に敗れた後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、当館に泊まった際に、児島高徳が『天莫空勾践 時非無范蠡』の十文字の詩を記した伝承地でもあるという。
正平2年(1347)、山名時氏は赤松貞範と戦い、笹向城・高田城を攻めた際、院庄館を落として居城とした。
その後、戦国時代の元亀2年(1571)には、宇喜多氏がこの館を奪い片上秀胤に与えた。この地は、宇喜多・毛利氏の争奪戦がくり広げられた。
慶長8年(1605)、信濃川中島より森忠政が美作一国を領して入封したが、津山城を築いて移った。
元亀2年(1571)、宇喜多氏がこの館を奪って片上秀胤に与えたが、宇喜多氏と毛利氏との間で争奪戦が繰り広げられた。慶長8年(1605)、森忠政が美作一国を領して入封したが、津山城を築いて移った。
『「現地説明板」、「日本城郭大系13」他参照』

現況・登城記・感想等

院庄館跡は作楽神社となっていますが、相当な広さです。南面を除く三方を、低いが幅広の土塁が全長500mにわたって巡っています。
また、水堀も神社周囲をめぐっていますが、これは作楽神社建立の際の明治2年から第二次大戦末期・戦後にかけて掘られたものとのことです。
ここはまた、「太平記」に登場する後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地でもあり、境内には児島高徳の銅像もある。
また、オッペケペ節で有名な川上音二郎が、妻貞奴と津山を訪れた際に寄進した拝殿が神楽殿として残っている。
(2013/11/23訪れて)

ギャラリー

土塁
南面を除く三方を、低いが幅広の土塁が全長500mにわたって巡っています。
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井戸跡??
昭和49年の発掘調査で、河原石で組まれた径60cmの円形の井戸が発見され、井戸内から鎌倉時代のものと思われる陶器類や墨書木片などが出土したそうで、説明板が立っていましたが、埋め戻されたようで、現場は下写真です(/。ヽ)。
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水堀
作楽神社の駐車場に着くと、すぐ前に水堀があります。水堀は、神社の全周囲をめぐっていますが、これは作楽神社建立の際の明治2年から第二次大戦末期・戦後にかけて掘られたものとのことです。
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小島高徳の像
ここはまた、「太平記」に登場する後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地でもあり、境内には児島高徳の銅像もある。
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川上音二郎寄進の拝殿(神楽殿)
オッペケペ節で有名な川上音二郎が、妻貞奴と津山を訪れた際に寄進した拝殿が神楽殿として残っている。
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