備後 鞆城(福山市)

歴史資料館が建つ鞆城本丸を望む

織田信長に追放された将軍足利義昭を毛利氏が鞆に迎えた際に築いた城

所在地

福山市鞆町536-1、鞆歴史資料館
丘の上の鞆歴史資料館が本丸跡。資料館の南下に有料駐車場が有る。
鞆歴史資料館:鞆町後地536-1、084-982-1121

形状

丘城

現状・遺構等

【現状】 鞆歴史資料館、宅地
【遺構等】 曲輪、石垣、石垣の石、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2012/01/09

歴史等

鞆城は、天正4年(1576)、織田信長に追放された将軍足利義昭を毛利氏が鞆に迎えた際に築城し、居館を設けたのが最初とされているが、鞆が古くから海上交通の要衝であることや南方約300mにある大可島城が南北朝の争乱の舞台になっていることから鞆城のある城山も古くから城郭として機能したことが考えられる。
義昭は、ここに6年間滞在し、鞆幕府といわれるようになるが、同10年(1582)には蔀山居館(福山市津之郷)に移っている。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦功により、福島正則が芸備49万石の領主として広島城に入城すると、鞆城には重臣大崎玄蕃を入れて、天守閣などを築き、城の修築を行った。
元和元年(1615)、一国一城令により天守閣などの主要建造物は壊されたが、大手門ヤ蔵屋敷等は残り、城の機能は保たれていた。
同5年(1619)、水野勝成が福山城主となると、鞆城に嫡男勝俊を居住させている。
その後、勝俊が2代目を継ぐと、重臣荻野重富を派遣し、鞆奉行としたが、重富は城を閉じて、その北麓に新しく鞆奉行所を置いた。『「日本城郭大系13」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

鞆の浦を見下ろす小高い丘の上に建つ歴史民族資料館が鞆城本丸跡で、本丸跡からは鞆の浦が一望のもとに見渡せる。
資料館(本丸跡)の東側下には石垣が復元されている。この石垣には数々の刻印がある石が見られる。また、本丸跡にもいろんな刻印のある石が並べて置かれている。
遺構はそれくらいかと思いきや、本丸跡周囲には他にも随所に石垣の一部等が残っているようだが、見落としてしまった(;>_<;)。

尚、「鞆の浦」の景色は勿論、「都市景観100選」や「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれた古い町並みが残る港町・鞆は風情がある。
また、古くは足利尊氏の後醍醐天皇に対する挙兵から幕末のいろは丸事件での坂本竜馬による談判等々、多くの歴史の舞台にもなり、それらにまつわる場所も多い。
それらを見ながら町を散策するのも良いだろう。というより、私の今回の登城は、そちらがメインかも?
それにしても、「鞆の浦埋立て架橋計画問題」は、どうなるのでしょうね?
(2012/01/09登城して)

ギャラリー

復元石垣
この石垣は鞆城本丸の東南隅とそれに連なる石垣の一部を復元したものである。鞆城は近世初頭に城郭を整えた城であるが、早くから取り壊されたため、その縄張りに不明な点が多い。1986年(昭和61年)に実施した発掘調査により、この石垣の基底部が確認され、歴史民俗資料館の建設にともない復元整備したものであるなお、この石垣には回・大・△などの刻印が認められるが他にも城跡内に残る石垣から#・○に一、二、八、卍・日などが確認されている。刻印は城の石垣によく見かけられる石工・採石地の印呪符などの諸説があるが定説はない。(説明板より)
尚、これらと同様の刻印は、福禅寺対潮楼の石垣や備後安国寺石庭にもみられ、鞆城が当時これらとも何らかの関係があったものと考えられるともいわれる。
IMG_8939

IMG_8938

本丸跡に並べられている石
IMG_8943

IMG_8946 IMG_8947

本丸跡からの眺望
本丸からは、鞆の浦が一望のもとに見渡せ、左の方に大可島城が見える。天気が良ければ、はるかに石鎚山などの四国の連山まで見えるようだが、残念ながら夕方でもあり・・・・。
鞆の浦絵図

IMG_8941

【鞆の浦散策】
「鞆の浦」の景色は勿論、「都市景観100選」や「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれた古い町並みが残る港町・鞆は風情がある。また、古くは足利尊氏の後醍醐天皇に対する挙兵から幕末のいろは丸事件での坂本竜馬による談判等々、多くの歴史の舞台にもなり、それらにまつわる場所も多い。
(港の景色)
夕日に輝く港、そこで働く人々、飛び廻るカモメ、潮の香り・・・。郷愁を感じる光景です。
IMG_8985

(町並み)
IMG_8958

(鞆の津の商家) 福山市重要文化財
この建物は、母屋、土蔵とも江戸末期の商家であった。母屋の内部は通り庭形式の三間取りで、店の間、中の間、奥の間の三室を配し、商家の建築様式の一つである。入口の格子や吊り大戸は、建築当初のものに復元した。土蔵は全部和釘(角釘)を使用し、幕末頃に流行した登り梁造りになっている。なおこの土蔵は明治末期に移築したものである。その後、明治27年設立の「鞆製網合資会社」の建物となり、魚網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社であった。(現地説明板より)

IMG_8989

(いろは丸事件、坂本龍馬談判の町家) 旧魚屋萬蔵宅
現在は喫茶処として営業されているが、ここで、あの坂本龍馬が紀州藩といろは丸事件について賠償交渉を行った。この後、福禅寺の対潮楼でも談判は行われた。坂本龍馬に関わる場所は、他にもいくつも残っている。坂本龍馬が歩いた鞆の浦を、当時を想像しながら巡るのもいい。
『いろは丸事件』とは、1867年4月23日夜、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求した。この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。事故から1ヶ月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。
IMG_8986

(福禅寺・対潮楼) 国指定史跡
福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院。本堂やそれに隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年代)に建立された。客殿からの海の眺めは素晴らしく、特に正徳元年(1711年)朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官李邦彦はその書を残した。また延享5年(1748年)には正使洪啓禧は客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海がその書を残している。
「対潮楼」では、「いろは丸事件」で龍馬が、鞆での最終日に談判を行った。それまでの交渉は「才谷梅太郎」としていたが、ここでは海援隊「坂本龍馬」の名札を渡して臨んだという。

IMG_8961

(円福寺・大可島城跡)
中世の城跡で、1342年、北朝方の足利軍と南朝方の桑原家が戦った際、桑原軍はここに立て籠もり全滅した。今も桑原家は鞆に住み、法要をしているという。戦国時代には村上水軍の一派の拠点となった。現在は円福寺が建っている。
IMG_8973

円福寺裏から弁天島を
対潮楼からの眺望は素晴らしいようだが、16:30で入れなかった(/。ヽ)。しかし、円福寺の裏から眺める景色も素晴らしかった(*^_^*)。左に見える船「平成いろは丸」は、毎日運航しているそうだ。
IMG_8977

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント