勝山御殿本丸(二の丸西側から)
幕末、四国連合艦隊の攻撃を受け、新たに海から離れた地に築いた城
別名
勝山陣屋、勝山ノ営
所在地
山口県下関市田倉
【アクセス】
国道2号「長府トンネル」東側の信号「滑石」を北へと県道247号に入り道なりに進む(最初は北上、途中から西進になる)。2km程行った「御殿町」バス停付近の信号を右折して道なりに1km程北上すると正面に勝山御殿跡へ出る。無料駐車場が完備されている。
形状
陣屋(実際は城郭造り)
現状・遺構等
【現状】 勝山地区公園
【遺構等】 曲輪、石垣、池、移築表門(了圓寺)、移築玄関(覚苑寺)、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/11/08
歴史等
文久3年(1863)に発生した長州藩による攘夷戦で、長府藩は本藩の長州藩と支藩である清末藩と共に四国連合軍と戦った。長州藩が砲撃を加えたのに対して、6月5日にフランス軍の報復攻撃を受けて、長府藩は甚大な被害を受けた。
そこで、海に近い長府陣屋は、海上に対する防衛力に欠けることを痛感した長府藩主元周は、海から離れた勝山に新たに勝山御殿を築き、移ることに決めた。
文久3年(1863)6月28日から築城を開始し、翌年の元治元年(1864)2月1日には、第13代藩主・毛利元周が長府から移ったという。まさに、長府領内の領民を総動員しての僅か7ヶ月ばかりの突貫工事であった。
慶応4年(1868)5月7日、藩主元周は、この城内にて病没し、その子元敏が跡を継いで在城した。
明治2年(1869)の版籍奉還後、豊浦藩庁となったが、明治4年(1871)7月、廃藩置県によって豊浦県に、そして11月には山口県に統合され、毛利氏の私産として処理されることになり、建物は取り壊され、付近は田畑となった。
当時の記録によれば、「勝山ノ営」「勝山陣屋」などとも呼ばれていたが、その構造はむしろ城郭というべきもので、最終期の近世城郭として全国的にも重要な遺跡である。
『「現地説明板」、「日本城郭大系14」他参照』
現況・登城記・感想等
勝山御殿は、勝山地区公園として整備されている。いつもの山城と違い、あまりにも綺麗すぎて違和感さえ感じるほどだ(*^_^*)。
縄張りは、北から南へ、斜面を4段に削平して、北の2段が本丸奥・本丸表、次の段が二の丸、最下段が三の丸となっており、本丸の上下2段の石垣が見事に復元されて残っている。
本丸表が最大の見どころで、長~く続く周囲の高石垣や虎口石垣が見事で、御殿、或いは陣屋と称されてはいるが、立派な城郭造りであった事がよくわかる。
尚、背後には戦国期の山城「勝山城跡」があり、登りたかったが、日も暮れようとしていたので断念した。
(2012/11/08登城して)
ギャラリー
勝山地区公園案内図(現地案内板より)
勝山御殿縄張推定略図(現地説明板より)
勝山御殿の縄張りは、北から南へ、斜面を4段に削平して、北の2段が本丸奥・本丸表、次の段が二の丸、最下段が三の丸となっている。
三の丸から二の丸を
車で勝山御殿跡を目指してくると、正面に立派な石垣と石段が現れる。手前の石段下が三の丸跡で、ここに駐車場(本丸西側にもある)がある。
二の丸への石段
まずは、石段を登って行く。それにしても、立派な上、綺麗な石段です。いつもの山城との、あまりの違いに少しためらった?
【本丸へ】
古絵図からみた本丸
勝山御殿の本丸は、南北上下2段に区画されていた。砲撃の目標となる櫓などは設けず、平屋の殿舎が建てられ、2つの殿舎は渡り廊下でつながれていた。
本丸南側の区画にある殿舎を「表」とし、藩主の寝所、御座の間のほか、式舞台、大書院、御用所、玄関などが配され、政務を執り行う公的な施設として使用されていた。また、藩主の身の回りを世話する医師や茶堂、衣類方、煮方などが常駐する部屋も設けられていた。
本丸北側の上段の区画に建てられた殿舎を「奥」とし、藩主夫人をはじめ家族の居室として使用されていた。
本丸表南西隅の石垣
本丸の南西隅の石垣は大きな櫓が建てられそうな立派なものだ。そこから北へ長~く続く本丸西面の石垣は見事なものです。
二の丸跡から本丸表南東の石垣を
二の丸跡の池
二の丸北東部(本丸表石垣下)には、築庭があったのか、池の跡のようなのが・・・。
本丸表南西の虎口
本丸表の南西部にある虎口は、本丸内へのスロープなどが、少し改変されているようだったが、なかなかのものだ。
本丸
本丸は、圧倒されるような広さだ。正面北側奥に低い石垣があり、その上が本丸奥。遠く、北西の方には戦国期の城「勝山城跡」が見える。
本丸表に残る池
本丸表の北東部には池があり、柵で囲まれていたが、往時のものらしい。この辺り、マムシ注意の看板あり。
本丸奥南面の石垣(南西部から撮影)
本丸奥南面の石垣は、低いものの、長~く延びていて、結構見応えがある。
本丸奥南面の石垣(南東部から撮影)
本丸奥へは、この写真右側から入って行くことができる。
本丸奥
本丸奥も、本丸表ほどではないが、かなりの広さです。南端には、ステージが造られていたが、コンサートなどが開催されたりするのだろうか?
本丸奥西側の石垣
本丸奥西側の石垣も見応え充分だ。本丸表の南から、ここまで高石垣が続くのです。
改めて勝山御殿を南西部から
見事な石垣で、どう見ても城郭です。これを見て、誰も陣屋の石垣だとは思わないでしょう。