伊予 川之江城(四国中央市)

本丸跡に建てられた模擬天守

南朝方河野氏の砦として土肥義昌が築き、その後も数々の攻防のあった城

別名

仏殿城

所在地

愛媛県四国中央市川之江町大門
【行き方】
JR予讃線「川之江駅」から西へ約600mにある城山公園が城跡で、公園の無料駐車場が完備されている。

形状

平山城

現状・遺構等

現状:城址公園
遺構等:曲輪、石垣、模擬(天守・櫓門・隅櫓)、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/05/01

歴史等

南北朝動乱の頃、南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元3年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
興国3年(1342)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、 城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。
細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻め入ったが撃退している。
土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった妻鳥友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて、 城を攻め取らせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。
河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、 戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという秘話伝説も残っている。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に敗れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明の時、 最終的に廃城となった。数々の攻防は、川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇といえる。
戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩2万8600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年 (1642)病没し、領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

川之江の町に入るといろんな場所から、川之江城の天守を山の上に仰ぎ見ることができる。その姿は、なかなか様になっている。
車で一気に登ると、城址公園駐車場に辿り着く。そこから少し登って行くと、二の丸に出る。そこには模擬とはいいながら、 随分立派な櫓門に出る。櫓門をくぐると天守へ向かうきれいな枡形虎口があり、振り返って見ると、 その虎口と櫓門のコラボレーションが実に見事だ。
また、この城址からの瀬戸内海方面の眺望は、木々に遮られながらも素晴らしいのが分かる。ここも、天守は連休中にも関わらず休館日で、 天守上から見たら、もっと素晴らしい眺望かと思うと本当に残念無念!(怒)。
(2007/05/01登城して)

ギャラリー

川之江城遠景
川之江の町に入るといろんな場所から、川之江城の天守を山の上に仰ぎ見ることができる。その姿は、 なかなか様になっている。

櫓門
二の丸跡には模擬とはいいながら、随分立派な櫓門が建つ。

涼櫓
こちらの櫓は、木陰にひっそりと建っていた。

枡形虎口
櫓門をくぐると天守へ向かうきれいな枡形虎口が

櫓門&枡形虎口
本丸に登り、振り返って見ると、枡形虎口と櫓門のコラボレーションが実に見事だ。

本丸に建つ模擬天守
連休のど真ん中というのに休館日!!

㊧駐車場から二の丸への登城道の石碑、㊨本丸にある石碑
㊧は川之江城となっており、㊨は仏殿城となっている。
 

本丸からの景色
この城址からの瀬戸内海方面の眺望は、木々に遮られながらも素晴らしいのが分かる。ここも、 天守は連休中にも関わらず休館日で、天守上から見たら、もっと素晴らしい眺望かと思うと本当に残念無念!(怒)。

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