南東部の内堀と土塁(右が外堀土塁、左が遮蔽土塁)
中世伊予の守護河野氏250年間の居城は武家屋敷が復元され道後公園に
読み方
ゆづきじょう
別名
湯月城
所在地
愛媛県松山市道後湯之町(道後公園)
【アクセス】城跡は道後公園となり、湯築城資料館が建てられ駐車場もあります。
湯築城資料館:松山市道後公園、電話089-941-1480
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 道後公園 (国指定史跡)
【遺構等】 外堀、内堀、曲輪、土塁、復元石垣、復元土塁、復元武家屋敷、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2005/05/02
歴史等
湯築城(ゆづきじょう)は、中世伊予の守護河野氏の居城として、約250年間存続した。
河野氏は、風早郡河野郷(現松山市北条)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180~1185)で河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得た。承久の乱(1221年)で没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築いた。また鎌倉時代には、河野氏から出た一遍上人が時宗を興した。
南北朝期の初め頃(14世紀前半)、通盛の頃に本拠を河野郷から道後の地へ移し、湯築城を築いた。
その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されたが、守護職とともに奪い返した。そして足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ伊予支配を維持した。しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではなかった。
しかし、それらの争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化した。
天正13年(1585)、全国統一を目指す豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、当主通直(牛福丸)は降伏し、河野氏の伊予支配に終止符が打たれ、やがて湯築城は廃城となった。
『「サイト・コンソーシアム元気・道後公園 湯築城跡」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
湯築城(ゆづきじょう)は、道後温泉のすぐ近くにある道後公園全体が湯築城跡(南北約350m、東西約300m)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城である。
丘陵には、3段の曲輪が設けられているが、公園化によってかなり改変されてそうである。木々が鬱蒼と生い茂り、眺望が良いとは云えないが、一番高い主郭には展望台が設けられ、松山城方面を望むことが出来る。また、復元武家屋敷が一部見える。
麓の城跡部分は、動物園が移転となり、1988年より始まった発掘調査によって、湯築城趾南側の内堀と外堀に挾まれた地点から大規模な遺構・遺物が発見されたそうで、道後公園としてよく復元整備が進められ、きれいな公園となり、市民の憩いの広場となっている。今朝も、早くから、犬を連れて散歩をする人を大勢見かけた。
外堀は、ほぼ完全な状態で残されていて、堀の内側には高さ約5m程の土塁が廻らされている。
その内側に、発掘調査に基づいて、武家屋敷の一部や土塀、排水路などが復元されている。また武家屋敷街と丘陵の間には内堀と土塁が復元されている。土塁は、内堀の外側に築かれた外土塁形式となっている。 また、東側大手口と武家屋敷との境に遮蔽土塁が復元されていた。
(2007/05/02登城して)
ギャラリー
湯築城の全体図
道後公園入口
西側の外堀と土塁
西側の内堀と土塁
内堀の土塁は、内堀の外側に築かれた外土塁形式となっている。
武家屋敷が復元された家臣団居住区①
武家屋敷が復元された家臣団居住区②
右側土塁は外堀土塁、排水路も
上級武士居住区の礎石と山頂部の城址を
内堀と借景庭園
山頂の主郭
山頂部は公園化に伴い、かなり改変されているようだが、主郭(詰)跡と思われる一番高い部分が展望台になっている。
主郭の展望台からの眺望
松山城方面だけ視界が拡がっていたが、あいにくの朝靄で、もうひとつである。右上の山が松山城。真下には家臣団居住区が見える。
主郭の展望台から家臣団居住区を
まるで野球場みたいだ。
【道後温泉・坊ちゃんの湯】
道後と言えば、道後温泉である。道後温泉で人気が、この「坊ちゃんの湯」であるが、大変な人・人・人でとてもゆっくり入ってなどいられないくらい。この建物が人気のもとでしょうか。