土佐 佐川城(佐川町)

佐川城、二ノ段東側の堀切

長宗我部氏重臣久武氏の居城、関ヶ原合戦後に山内氏重臣深尾重良の居城に

所在地

高知県高岡郡佐川町甲(古城山)
【アクセス】
牧野公園山頂部が城跡で、青源寺の背後(東)の山です。青源寺を右手に見て、道なりに登って行くと巨大な物見岩が現れます。物見岩の背後に駐車場があります。
青源寺:佐川町甲1460、電話0889-22-3545

所要時間

物見岩背後の駐車場から詰ノ段まで10分ほど、今回の所要時間は45分

形状

山城(標高約200m)

現状・遺構等

【現状】 牧野公園、詰ノ段は山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2015/02/19

歴史等

天正初年(1573)、長宗我部元親の重臣・久武内蔵助は、それまでの松尾城の水不足を嫌い、現在古城山と呼ばれる地に佐川城を築城した。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に参加した元親の子・盛親は除封され、山内一豊が土佐の国主となった。
翌慶長6年(1601)浦戸城に入った山内一豊は、領内の要衝に老臣を配して備えとしたが、佐川城には深尾重良が入り深尾藩1万石の居城となった。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令により、翌元和2年(1616)佐川城は廃城となり、代って山麓に土居屋敷が建てられたが、明治2年(1869)に廃された。
『「現地説明板」、「日本城郭大系15」参照』

現況・登城記・感想等

佐川城は近世の城だろうと、知識もなく、何となく出掛けたのですが、それがどうしてどうして、大変な山城です。
山麓の土居跡から、九十九折れの坂道を車で登って行ったのですが、傾斜が急なため、カーブが急で、その度に何度も切り返しながら登って行くはめになりました。
そして登り切った物見岩の辺りが本丸かと思いきや、何と、その背後の山が詰ノ段を中心とする主郭部です。
主郭部は、山頂部の詰ノ段を中心とし、両側に曲輪を配した連郭式縄張りで、曲輪間を切岸による高低差や堀切で区画されています。
詰ノ段は4段からなり、中央部が堀切で断ち切られています。南西端の三角点のある最頂部は天守跡だそうです。
尚、二ノ段と詰ノ段の側面には石垣が築かれています。
この主郭部だけでも、充分見応えがありましたが、薄くて消えかかった説明板の縄張図によると、その南北方向に、さらに多くの曲輪が存在しているようです。一体、どれほどの山城だったのかと驚きです。
(2015/02/19登城して)

ギャラリー

佐川城縄張図(現地説明板より)
佐川城は、詰ノ段の下にある説明板の縄張図によると、詰ノ段のある主郭部を中心に、その南北方向に多くの曲輪が存在していたようです。ただ、その説明板が、すっかり薄くなっていて、よく見えないので帰京後、パソコンで調整してみたのですがこの程度なので、よく分かりません(/。ヽ)。
00縄張図2

佐川城主郭部縄張略図(現地案内板より)
郭部は、山頂部の詰ノ段を中心とし、両側に曲輪を配した連郭式縄張りで、曲輪間を切岸による高低差や堀切で区画されています。尚、佐川町教育委員会から送って戴いた概況図には物見岩付近の2段になった平坦地が二の丸となり、詰ノ段が本丸となっています。
00縄張り略図

【登城記】
物見岩が・・・
土佐藩主・山内一豊の筆頭家老深尾家の菩提寺の青源寺の前を通り過ぎ、カーブのたびにハンドルを何度も切り返しながら九十九折れの細~い道を登って来ると左前方にデッカイ岩が現れます。いわゆる物見岩と呼ばれている巨岩です。
03物見岩

物見岩脇の虎口
物見岩の脇を通って行きます。物見岩の反対側には土塁があり、その間を通る道は曲がりくねっています。佐川城への虎口で、往時は門が建てられていたのではないでしょうか。 
05虎口

物見岩と城址碑
物見岩奥の駐車場に車を停めて、物見岩へ・・・。物見岩の手前(写真右)に城址碑が立っています。
07物見岩

物見岩
一緒に登城した増っさんと比べてもらえば分かりますが、物見岩はドデカイです。岩の下が砂袋で補強されているようでしたが、今にも倒れそうで怖いような気も・・・。
物見岩

物見岩(脇)からの眺望
さすがに物見岩と称されるだけのことはあります。物見岩の脇からは、眼下に佐川の町並みが一望のもとに・・・。右奥の山は、当城へ移る前の松尾城跡の北端部になります。
11物見岩脇からの眺望

物見岩(脇)から松尾城跡を
13物見岩脇から松尾城を

二の丸
物見岩がある平坦地(曲輪)の奥に、一段高い曲輪があります。そこが城主が居住したところでしょうか。尚、佐川町教育委員会から戴いた概況図には、この周辺は二の丸となっています。
15二の丸

詰ノ城を
詰の城は、二の丸の背後の山です。比高差40~50mほどでしょうか。山麓には、縄張図付きの説明板と主郭部の縄張り略図が載った案内板が設置されています。
17詰の段を見上げる

詰ノ城へ登る
山麓には、伐採された杉の大木が所狭しと放置され、登城道が分かりません。多分、右へ登って行くのだろうと思ったのですが、せっかちな増っさんは左へ登って行ってしまいました。止むを得ず、私もあとを追って登って行くことに・・・(苦笑)。
19二ノ段方面へ

二ノ段東下の曲輪
道はなかったものの、何とか強引に登ってきたら、どうやら二ノ段の東側の曲輪へ到着しました。西の方(写真奥)を見ると、二ノ段の切岸と、その前に堀切が見えました。 
21二ノ段東の曲輪

二ノ段の切岸と堀切
二ノ段の切岸は、その手前の堀切の底から3mほどあります。また、堀切の中央には、石畳のような土橋?が架かっています。二ノ段へ行くには、土橋を渡って切岸を登るしかありません。
22二ノ段切岸と土橋

二ノ段東側の堀切
当写真は、堀底から撮ったものです。手前の石積みは、堀切中央に架かる土橋(石橋?)です。右の切岸上が二ノ段です。
23二ノ段東の堀切

二ノ段へ登る増っさん
二ノ段へ登って来る増っさんを撮影。すぐ下が堀切で、その向こうが二ノ段の東の曲輪です。
27二ノ段から

二ノ段
二ノ段は杉林になっています。周囲に土塁などは設けられていません。
29二ノ段

詰ノ段の切岸
二ノ段に登り、西の方へ向かって歩いて行くと、正面に詰の段の切岸が見えてきます。高さ5mはゆうにあるでしょう。
31詰ノ段切岸

二ノ段東側面の石垣
詰ノ段へ登る道がないかと、東側面へ向かって行ったら、石積みを見付けました。二ノ段から詰ノ段にかけては、東西両側面に石垣が築かれていたようですが、東面の石垣は比較的良好に残っているようです。但し、ここから詰ノ段へ登れるようなところはありません。
33二ノ段石垣

詰ノ段切岸をよじ登る
詰ノ段へ登る道はないようなので、切岸を強引に登ることにしました。大変な急斜面で、斜度は50度ほどはありそうです( ̄ー ̄;。
35よじ登る

詰ノ段の土塁
何とか急斜面の切岸を登って詰ノ段へ上がりました。詰ノ段の東端周囲は高さ1.5m前後の土塁がめぐっています。詰ノ段内は、伐採された杉の大木が放置されたままになっていました。
37詰の段土塁

詰ノ段東端の土塁
土塁は、東端部は2m近くあります。写真右下が、先程登ってきた切岸です。
39詰ノ段土塁

詰ノ段を区切る堀切①
詰ノ段内を奥へ向かって行くと、堀切が現れました。詰ノ段を区画する堀切で、奥(右)の方が、少し高くなっています。
43詰の段堀切

詰ノ段を区切る堀切②
上写真の堀切を堀底から撮ったもので、深さ2~2.5mほどあります。
45詰の段堀切

西側から2つ目の詰ノ段
堀切を渡って、さらに詰ノ段の奥へ向かうと、またまた切岸が見えてきました。高さは3~4mほどです。
47詰の段

西側から3つ目の詰ノ段(本丸)
切岸を登ると、そこに「佐川城本丸跡」の標柱が立っていました。ここが、詰ノ段の中心部にあたるのでしょうか。その奥に、さらにもう一段高い土塁が見えますが、天守台です。
49詰ノ段上段部

天守台
この天守台が詰ノ段の南西端にあたり、三角点が立っています。というわけで、詰ノ段は堀切や切岸の段差によって区画された4つの曲輪からなることが分かりました。尚、この場所は、佐川町教育委員会から戴いた縄張略図には、天守跡となっていますが、果たして天守は存在していたのでしょうか?
55詰ノ段天守台

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント