豊前 門司城(北九州市)

本丸跡から関門海峡を見下ろす

門司氏350年の城、戦国期には大友氏・大内氏・毛利氏による壮絶な争奪戦が

別名

門司ヶ関山城、亀城

所在地

福岡県北九州市門司区門司字古城山、和布刈(めかり)公園

所要時間

和布刈(めかり)公園駐車場から約6分

形状

山城(標高175m、比高約100m)

現状・遺構等

【現状】 和布刈(めかり)公園
【遺構等】 曲輪、石垣、石碑、説明碑

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2012/11/13

歴史等

門司城は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させたといい伝えられている。
寛元2年(1244)、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任じられて下向。
のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続いた。
その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠もり、骨肉の争いもあった。
室松時代末になると、門司半島は大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり、当城はその渦中に置かれた。ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、門司城は、城主も入れ替わりながら続いた。
慶長5年(1600)、細川忠興は豊前へ入国後、当城を修築して長岡勘解由左衛門を城代として置いたが、元和元年(1615)の一国一城令により、元和3年(1617)に約400年におよぶその歴史を閉じた。
『「現地説明碑」、「日本城郭大系18」より』

現況・登城記・感想等

門司城は、関門海峡を望む、標高175mの古城山の山頂に築かれている。
明治25年に海軍の要塞となったため、遺構はほとんど残っておらず、石垣の一部が僅かに残っているだけで、城址として見る場合は見る影もないといったところだ。
しかし、古城山山頂部の本丸跡から見下ろす関門海峡と関門橋、海峡を行き来する船、対岸の下関の街並み、響灘の島々の風景は、それを帳消しにしてくれるほどの絶景だ(*^_^*)。
(2012/11/13登城して)

ギャラリー

壇ノ浦パーキングから関門橋と古城山(門司城跡)を
門司城は、関門海峡に張り出した門司半島に聳える古城山の上に築かれている。関門橋の向こうに見える山が古城山で、関門海峡は、この辺りが最も狭い場所600mほどしかないという。
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本丸
本丸は古城山頂に平坦地として形をとどめている。本丸跡には石碑(左)が立っている。右のコンクリートの残骸は、
海軍の高射砲の台座らしい。
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本丸大手に当たる部分の石垣
明治25年に海軍の要塞となったため、遺構はほとんど残っておらず、石垣の一部が僅かに残っているだけである。
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本丸奥の石垣
本丸跡の奥にも、このような石垣の一部と、捨てられたような石が積み上げられていたが、石垣の残骸でしょうか?
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本丸跡から見下ろす関門海峡
門司城跡は、遺構は見るべきものは無いに等しいが、本丸跡から見下ろす関門海峡と関門橋、海峡を行き来する船、対岸の下関の街並み、響灘の島々の風景は、それを帳消しにしてくれるほどの絶景だ(*^_^*)。響灘の辺り(写真の更に左)には、武蔵と小次郎の決闘の島「巌流島」も見える。
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弾薬庫?
本丸跡まで登って来る途中に、堀切のような地形があり、そこに、こんな頑丈そうな建物があったが、これも海軍の遺産で弾薬庫か何かでしょうね。
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イノシシが
門司城へ登城するにあたって、和布刈公園の駐車場まで着くと、車に向かって2匹のイノシシが向かってきたw(*゚o゚*)w。
「ギョギョーッ!こんなに多くの車が登ってくる公園に何故??」と思ったが、そういえば、駐車場の入口に「イノシシに餌を与えないで下さい」という看板があった。どうやら、餌を与える不届き者がいるらしい。
山の中には、もっと出て来るかもと、少しばかり気味悪かったが、今日は2人での登城だったので、鈴をつけて登ることにしました(苦笑)。
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