今津地区元寇防塁
元の攻撃に備え博多湾岸沿いに築いた石塁で大隅・日向国が分担した部分
別名
石築地
所在地
福岡市西区今津
JA福岡市今津支店(西区今津4806-12、電話092-806-2008)に駐車場(無料)あり
現状・遺構等
【現状】 松林ほか
【遺構等】 石塁、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2015/07/15
歴史等
13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、文永11年(1274)博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。
幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、建治2年(1276)3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させました。
防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用されています。防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。
この今津地区は、大隅・日向国が分担して柑子(こうし)岳の麓から毘沙門岳の麓まで、約3kmにわたり築きましたが、約3mの高さまで石を台形に積み上げています。
弘安4年(1281)元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役)。
元寇防塁は、昭和6年(1931)、国の史跡に指定され、保存されています。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
元寇防塁の遺構は、現在、7ヶ所で確認されているようです。今回、私は「今津元寇防塁」を見て廻りました。
大昔の遺構であり、しかも浜辺なので、その多くが砂に埋まっていますが、西の方へ向かって行くにしたがって石塁上部が顔を覗かせ、西端部は発掘された石塁がフェンスに囲まれて保護されています。
尚、帰宅してから調べたら、どうやら「生の松原地区」の防塁が最も身近で見られ、その壮大さが感じられるようです。
今回は珍しく、電車で「九大学研都市駅」へ行き、そこからタクシーに乗って見た廻ったので非常に非効率的でした。次回は、車で7ヶ所全てを見て廻ろうと思います。
(2015/07/15訪れて)
ギャラリー
元寇防塁位置図(現地説明板より)
元寇防塁の遺構は、現在、西から今津、今宿、生の松原、姪浜、西新、地行、箱崎の7ヶ所に確認されているようです。
【今津地区元寇防塁】
今津地区の防塁は、大隅・日向国が分担して、柑子岳の麓から毘沙門岳の麓まで約3kmにわたり築きました。約3mの高さまで石を台形に積み上げています。石材は、西が花崗岩、東が玄武岩、中央は2つの石材が交互に用いられています。
今津地区防塁東端
今津地区防塁の東端部分は、完全に砂に埋もれ、なだらかな丘になっており、そこに石碑が建てられています。
今津浜
海岸へ出てみると、広~い砂浜です。砂に埋もれてしまうのも当然ですネ。この海岸の向こうから元の大軍団が現れたのですネ。
石塁の頭が
先程のところから1kmほど西へ向かうと、石塁の頭が・・・。周囲との高低差は僅かです。
石塁上部が
さらに西へ向かうと、もう少し顔を出してきます。周囲との高低差は30~40cmほどですかね。
石塁発掘・保護
さらに、西へ向かうと発掘された石塁がフェンスに囲まれて保護されています。石塁の幅は、底部3m弱、頂部2.5m強、高さは2.5mほどです。
石塁海岸側
海岸側は、攻め込まれにくいように、石垣が垂直に築かれています。
石塁内(陸)側
内側(陸側)の石垣は、多少傾斜を付けて行動に便利なように積まれています。