肥前 深堀陣屋(長崎市)

深堀純心幼稚園前に立つ陣屋跡の碑と説明板

承久の乱で功のあった深堀能仲が着任、江戸期には佐賀鍋島藩家老6千石の陣屋

所在地

長崎県長崎市深堀町5丁目
深堀純心幼稚園付近が陣屋跡で、幼稚園の前に石碑と説明板がある。この辺りは囲馬場(かこいばば)のあったところ。周辺は道が狭い上、駐車場も全くない。
深堀純心幼稚園:長崎市深堀町5-291、電話095-871-3426

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 深堀純心幼稚園ほか
【遺構等】 石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2012/11/10

歴史等

建長7年(1255)、この地に深堀能仲が地頭として下向した。深堀氏は本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県いすみ市深堀)の出身である。能仲が承久の乱(1221)の勲功により戸八ヶ浦(長崎半島西部)と呼ばれたこの地に下ると、この地は領主の名をとって深堀と呼ばれるようになった。
戦国期、深堀氏は諫早西郷氏(諌早城)から養子を迎えて当主とした。18代純賢(すみまさ)である。純賢は西郷氏と協力して大村氏、長崎氏との抗争を繰り返し、天正5年(1577)からは肥前平定を目指す龍造寺氏に属して大村氏と争った。
その後、宿敵大村氏は龍造寺氏に降ったが、新たな敵島津氏が有馬氏を味方にして肥前に現れることとなる。そして天正12年(1584)の沖田畷の戦い(島原市)で、有馬・島津の連合軍6千の前に龍造寺軍3万は撃破され、当主隆信も討死してしまった。純賢は隆信敗死後も龍造寺氏に属して島津氏に反抗し続け、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐時にはこれに従って所領を安堵された。
この時、龍造寺氏に代わって鍋島直茂が実権を握ったが、純賢は直茂に従い、姓も鍋島に改めた。純賢は鍋島重臣石井信忠の妻を後妻に迎え、その子茂賢(しげまさ)に家督を譲った。
その後、茂賢は佐賀藩の家老として深堀の地に6千石を賜った。名は鍋島となったが鎌倉期以来一貫して深堀の地の主として明治に至ることになる。
『「現地説明板」、「日本城郭大系17」他より』

現況・登城記・感想等

深堀陣屋は、深堀純心幼稚園や住宅地などとなり埋もれてしまい、往時の遺構を見るのは難しいが、幼稚園の奥の「カトリック深堀教会」に、僅かに石段や石垣の一部が残るようで、園庭の遊具越しに僅かに石垣が見えるが・・・。
また、近くには、武家屋敷の石塀などが残り、石碑も立っている。
(2012/11/10訪れて)

ギャラリー

カトリック深堀教会に残る石垣?
陣屋跡の石碑が立つところから、純心幼稚園庭の遊具越しにカトリック深堀教会下の石垣が見えるが、これは陣屋の石垣の一部らしいが・・・。
IMG_5047

武家屋敷石塀
IMG_5048

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント