田中城主郭西側の堀切
肥後国衆和仁氏の城、佐々成政の検地に反抗して秀吉の大軍に包囲され籠城戦が
別名
和仁城(わにじょう)、鰐城
所在地
熊本県玉名郡和水町(なごみまち)大字和仁(わに)字田中
【アクセス】
春富小学校から東へ向かうと、城跡の小山が見えて来ます。案内板があるのですぐ分かると思います。山頂部に無料駐車場あり、また登城口にも駐車スペースがあります。道は細い上、それほど高い山ではなく、山麓から中腹にかけても見どころが多いので、下から歩いて登ることをお薦めします。
春富小学校:和水町和仁781、電話0968-34-2130
所要時間
今回の見学時間は45分でした。
形状
平山城(比高約50m)
現状・遺構等
【現状】 城址公園(国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、空堀、井戸、復元冠木門、復元柵、建物復元表示、石碑、説明板、遺構説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2013/11/26
歴史等
田中城は、廣瀬文書の暦応3年(1340)の項に出てくる鰐城にあたると考えられている。築城時期については定かではないが、落城する天正15年(1587)まで250年間以上は続いたと思われる和仁一族の居城で、戦国時代末期には、肥後国衆の1人、和仁親実(わにちかざね)が居城としていた。
和仁氏は、もともと菊池氏の家臣で、天正年間のはじめには大友氏に属して龍造寺氏と戦ったり、後には龍造寺氏や島津氏に属して行き抜いてきた。
豊臣秀吉が九州に出兵すると、和仁氏は辺春氏、大津山氏と共に早々と城を開き、道の案内をしたので、本領は安堵された。
秀吉は、九州征伐後の国割りで、佐々成政に肥後一国を与えた。肥後は、守護の菊池氏が滅んだ後、52人の国衆が割拠していたが、秀吉からそれぞれ本領を安堵された。
秀吉は成政に肥後の支配を任せるにあたり、これら国衆を刺激しないため3年間は検地をしないように命じたにも関わらず、成政は入国と同時に強引に検地を実施しようとした。
そのため、俄然、国衆は決起し、ここに「肥後国衆一揆」が起こった。まず、天正15年(1587)に隈府城(菊池城)主の隈部親永(くまべちかなが)が起ちあがると、和仁親実は、隈部親永に呼応し、姉婿の辺春親行(へばるちかゆき)と共に田中城に立て籠もった。
秀吉は、小早川秀包、安国寺恵瓊、立花宗茂、鍋島直茂、筑紫広門などの九州勢1万の大軍で田中城を包囲した。
約40日間におよぶ籠城戦となったが、辺春親行の裏切りもあり、天正15年(1587)12月5日に落城し、和仁・辺春氏一族はことごとく討ち果たされた。
『「現地説明板」、「日本城郭大系18」、「熊本県ホームページ」、「立花宗茂・八尋舜右著(PHP文庫刊)」参照』
現況・登城記・感想等
田中城は、南へ突き出した舌状台地の根元を断ち切ることによって丘陵を独立させて築いています。
その縄張りは、中央部の楕円形の平坦な一画を本丸とし、約2mの段差をつけて西側を除く3方に曲輪を設け、さらに、その周囲に深さ約10m、長さ約300mの空堀をめぐらし、南・西・北東に延びる尾根を断ち切って3ヶ所に出丸を配置しています。
城跡は、国指定史跡となり、本丸を中心に城址公園として綺麗に整備され、楽しく散策できます。
本丸跡には、発掘調査で確認された12棟の掘立柱建物跡がツゲの木が植えられて復元表示され、城門や城門柵も発掘された柱跡や和仁仕寄陣取図などをもとに復元されています。
また、空堀は、一部がやや薮状態になってはいるものの、規模が大きくて見応えがあります。
田中城の、全体の規模は一豪族の城でもあり、それほど大きくはありませんが、少数で大軍を相手にするには、コンパクトにまとまり、かえって都合が良かったのではないかと思います。
登城前には、さほど期待もしていなかったのですが、各遺構が良好に残っている上、案内板も行き届いており、得した気分です。
(2013/11/26登城して)
ギャラリー
田中城縄張図(現地説明板より)
田中城全景
春富小学校から東へ向かうと、城跡の小山が見えて来ます。山裾が急崖になり、如何にも城跡の雰囲気があります。
本丸一段下の曲輪から本丸を
山頂部の主郭部まで車で登って行けます。本丸は、周囲より2mほど高くなっています。
復元冠木門
本丸への入口には、城門や城門柵が、発掘された柱跡や辺春・和仁仕寄陣取図、肥前名護屋城図屏風などを参考に復元されています。
本丸跡
発掘調査で確認された12棟の掘立柱建物の柱跡をもとに、ツゲの木が植えられて復元表示されています。
本丸周囲の曲輪
本丸周囲には、約2mの段差をつけて西側を除く3方に曲輪を設けています。
腰曲輪
本丸周囲の曲輪の下にも、幾段かの腰曲輪が設けられています。
本丸西側下の腰曲輪(段曲輪)
本丸の西側は、急崖になっているが、段曲輪が設けられています。
主郭部の西の出丸(出丸1)
当写真は、本丸下の段から、堀切越しに、西側の出丸(出丸1)を撮ったものです。。
出丸1の先端部
出丸1は、北西へと延び、多くの段曲輪が設けられており、物見台の役割と同時に捨曲輪的なものでもあったようです。
大堀切と出丸1
堀切の写真を撮りに、堀底へ下りて、藪の中を突入して行きました。
出丸1との間の大堀切
堀切は、主郭側まで高さ約10m、上部幅は20m以上ある巨大なものですが、平成元年の調査で、さらに堀底に深さ4.4~4.6mほどの堀が見つかったそうです。しかも、その底部幅は0.8~1.1mと非常に狭く、人一人がやっと通れるほどだそうですw(*゚o゚*)w。
出丸2との間の堀切
この北東部の出丸2との間の堀切も、出丸1間の堀切に負けず劣らず大規模なもので見応え十分です。
主郭部の南の出丸(出丸3)
本丸下の段から撮ったものですが、細長く伸びた出丸の様子がよく分かります。尚、この先に伝弾正屋敷跡があるようですが、見落としてしまいました(;>_<;)。