隈部館枡形虎口
肥後最有力の国衆・隈部氏の城館
読み方
くまべやかた
別名
猿返城(さるがえしじょう)、永野城
所在地
熊本県山鹿市菊鹿町上永野、隈部神社
【アクセス】
菊鹿町上永野の東北東の山腹にある隈部神社が館跡です。上手く説明ができなくて申し訳ないのですが、菊池市中心部から県道18号線で山鹿市菊鹿町上永野を目指して北上して行くと、何箇所にも「隈部館」への案内板があるので、それに従って進めば辿り着きます。最後は、かなり山の上まで登って行きます。駐車場が完備しています。
所要時間
今回の見学時間は30分でした。
形状
館(標高345m、比高228m)
現状・遺構等
【現状】 城址公園(隈部神社ほか) 国指定史跡
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、土橋、建物礎石、庭園跡、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2013/11/26
歴史等
隈部館は、中世肥後の国人・隈部氏の居城で、館跡の北東の山上(標高685m)に位置する猿返城(さるがえしじょう)と一帯となって城域を構成していたと考えられます。
隈部氏は菊池氏の有力家臣で、隈部武治のときに猿返城(隈部館)に移り、その後、次第に城域を拡大していいきました。尚、築城時期については、隈部親家(?~1550年)が築城したとも、親家の子・親永(?~1588年)が築城したともいわれています。
菊池氏滅亡後の混乱を経て、豊後の大友氏が肥後を支配するようになると、菊池氏の旧臣赤星親家と隈部親永が対立したが、永禄2年(1559)隈部親永はこの猿返城(隈部館)を出陣し赤星氏を合勢川の戦いで破った。さらに天正6年(1578)には肥前の竜造寺隆信と結び、赤星氏を攻めて追放し、菊池・山鹿の両軍を抑えた。
その後、隈部氏は天正8年(1580年)に本拠を隈府城(菊池城)に移りました。
尚、「隈部館」の名称は、県指定史跡になったおりに定められたもので、江戸時代の文献には「猿返城」の館と記されている。
『「熊本県ホームページ」、「現地説明板」、「日本城郭大系」参照』
現況・登城記・感想等
登城前は、「隈部館」は「館」でもあるし、平野部にあるものと思い込んでいました。ところが、案内板に従って車を運転していくと、曲がりくねった坂道をどんどん登って行くではないですかw(*゚o゚*)w。
帰って来てから調べると、何と、標高345m、比高228mもあるという。縄張りこそ館形式ですが、こりゃあ完全に山城ですよ。今では、立派な舗装道路を車で登って行くことができるが、以前は、危険な崖道を登って行ったものだそうです。
さて館跡ですが、詰城の猿返城(標高685m)の山腹(標高345m付近)を大規模に造成した広い平場を主郭とし、その背後の尾根を2本の堀切で断ち切っています。そして、正面下は大規模な堀切で断ち切り、その前面東よりに「伝・馬屋跡」の張り出し区画を設けています。
主郭への入口は、当時の一豪族としては随分立派な石垣造りの枡形虎口が構えられています。
主郭には、礎石建物跡と庭園遺構が残り、主郭奥(北東部)の最高所には隈部神社が祀られています。
全体的には、遺構が良好に残り、よく整備もされ、今も整備が進んでいるのですが、館背後の堀切に伐採された木が放りっ放しになっているのが写真の邪魔でした(苦笑)。
(2013/11/26登城して)
ギャラリー
隈部館縄張図
登城
南口から館内に入ると二重の土塁に囲まれた正方形の伝・馬屋跡があります。道は、この馬屋跡の真ん中を突っ切って行きます。
伝・馬屋跡
伝・馬屋跡へ入って振り返って撮った写真です。伝・馬屋跡は、25m×25mの、ほぼ正方形です。
伝・馬屋跡周囲の土塁
伝・馬屋跡周囲は、石積みのある土塁が巡っています。妙に立派過ぎて、本当に馬屋跡なのか疑問です。
土橋
伝馬屋跡から主郭へ向かうと、堀切に架かる土橋があります。土橋両側は石積みの土塁です。この土橋は、館の中心部への唯一の入口です。ここには、もともと7段の石段が設けられていたそうです。
堀切(土橋の左側)
この空堀は、幅はそれほどでもありませんが、堀底と城内側との比高差は4m近くあります。
主郭虎口石垣
土橋を経て、館内へ入ると、正面突き当りに主郭虎口の石垣が見えて来ます。ここを右へ曲がります。
主郭枡形虎口
主郭への虎口は枡形になっており、通路は写真左奥から右(写真手前)へ折れてから、左(写真手前右)へ曲り、7段の石段を登って主郭へ入ります。当時の一豪族としては随分立派な石垣造りの枡形虎口です。
主郭
主郭は、南北60m、東西85mの広さがあり、2棟の礎石建物、その東側に庭園跡が残っています。
礎石建物跡
庭園遺構
隈部神社
主郭の最高所の北東部には隈部神社が祀られています。
隈部神社西から主郭を見下ろす
隈部神社の西側は、土塁や空堀様の地形で複雑です。また、ここからは主郭全体がよく見えます。
神社背後の堀切
館跡は、今も整備が進んでいるのですが、館背後の堀切に伐採された木が放りっ放しになっているのが写真の邪魔でした(苦笑)。
詰の城
隈部館は、館跡の背後(北東)の山の上(標高685m)に位置する猿返城(さるがえしじょう)と一帯となって城域を構成していたと考えられます。また、米山城も詰城の一つであったようです。