肥後 竹迫城(合志市)

竹迫城本丸北側の空堀

竹迫氏320年、合志氏80年の居城、島津氏により落城

読み方

たかばじょう

別名

合志城(こうしじょう)、蛇尾城(じゃのおじょう)、上庄城(かみのしょうじょう)、穴ノ城

所在地

熊本県合志市上庄字城山、竹迫城跡公園
【アクセス】
合志小学校の北北東へ400~500mほどにあります。小学校の北東部を目指して行くと、あちこちに案内板があるので分かると思います。ナビにも、小学校の北(上)の方に竹迫城跡公園が出ると思います。
合志小学校:合志市上庄55、096-248-0016

所要時間

今回の見学時間は20分ほどでした。

現状

平山城

現状・遺構等

【現状】 竹迫城跡公園
【遺構等】 曲輪、土塁、堀、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/12/01

歴史等

竹迫城は、鎌倉時代の建久年中(1190~1199)に、関東から下向し、合志郡の地頭職となった中原師員(竹迫氏初代で、のち竹迫輝種と改名)によって築城されたといわれ、永正7年(1510)に、15代竹迫公種(久種)が大友氏に従い、豊後に移るまでの約320年にわたり竹迫氏の本城であった。
その後、永正8年(1511)には、合志高岑が池上城から竹迫城に移り、名称を合志城と改め、5代約80年間城主をつとめた。
この竹迫氏・合志氏時代の約400年を通じ、竹迫城は肥後北部の政治・軍事上の拠点として重要な位置にあり、南北朝時代には菊池氏・阿蘇氏と対立、戦国時代には大友氏・龍造寺氏・島津氏の争点となった。
このように中世の全期間を通して重要視された竹迫城であったが、天正13年(1585)9月に、薩摩の島津氏の侵攻により落城した。
『「現地説明板ほかより』

現況・登城記・感想等

現在、竹迫城跡は綺麗に整備された公園となっています。一面に芝生が植えられ、市民の憩いの広場となり、多くの家族連れが訪れていました。
竹迫城は、東西方向に延びる丘陵の最高所に本丸を置き、その両側に連郭式に曲輪を設け、曲輪間を堀切で断ち切った連郭式平山城を基本とした縄張りです。
その後、さらに城域が拡張されたようで、丘陵の南北にも曲輪が設けられていき、途轍もなく大規模な城郭になったようです。
本丸の北側には、規模の大きな二重、三重の土塁と空堀が設けられているが、堀底から土塁上まで比高差はかなりあるものの、傾斜は緩やかで、果たして、これでも防御になるのか疑いたくなるほどです。その光景は、まるでゴルフコースのミニチュア版のようで、当日も、多くの子供がソリに載って滑って遊んでいました(*^_^*)。
全体的に、遺構等もそれなりに残されているのですが、あまりにも綺麗に整備され過ぎていて違和感も・・・(苦笑)。
(2013/12/01登城して)

ギャラリー

竹迫城跡公園案内図(現地案内板より)
竹迫城跡公園案内図

本丸跡
本丸は、東西方向に延びる丘陵の最高所にあり、直径54m・短径28mの楕円形をしている。北隅には、「合志城址」と刻まれた石碑が立っています。
IMG_7513

城址碑
城址碑

本丸東側の堀切
本丸東側の堀切

本丸東側の曲輪から本丸を望む
本丸は、両側の曲輪より、多少高い場所にあります。この本丸東側の曲輪は、本丸より少し広いようですが、二の丸に当たるのでしょうか?
本丸東側曲輪から本丸を

本丸東側の曲輪の東側の堀切
本丸の東側の曲輪(写真左上)の東側も堀切で断ち切られています。堀切の右側も曲輪跡のようですが、こちらは雑木林になっており入って行くのはやめました。
本丸東側曲輪の東側の堀切

本丸西側の曲輪
本丸西側の曲輪は、本丸よりやや狭い。本丸と、この西側の曲輪及び本丸東側の曲輪が、当城の主郭部になるようです。
本丸西側の曲輪を

井戸跡
本丸西側の曲輪の西下には井戸跡がありました。
井戸

本丸北側の土塁と空堀①(東側から撮影)
本丸の北側には、規模の大きな二重、三重の土塁と空堀が設けられているが、堀底から土塁上まで比高差はかなりあるものの、傾斜は緩やかで、果たして、これでも防御になるのか疑いたくなるほどです。
本丸北側の空堀1

本丸北側の土塁と空堀②(西側から撮影)
空堀の光景は、まるでゴルフコースのミニチュア版のようで、当日も、多くの子供がソリに載って滑って遊んでいました(*^_^*)。
本丸北側の空堀2

本丸北側の現歴史広場
本丸北側の空堀の外(北)側に、空堀と広い平坦地があり、現在は「歴史広場」となっていますが、ここには重臣の屋敷があったようです。左奥は、上写真の空堀です。
歴史広場

本丸北西部の三重土塁
土塁は、結構複雑にめぐり、本丸の北西部あたらいは三重土塁になっています。
三重土塁

寛永堀
本丸北西部の土塁上から、奥の方を見ると橋が架かっています。案内板によると、「寛永堀」となっていましたが、公園北側を流れる東谷川を利用した水堀です。
寛永堀

竹迫城跡公園石碑
北西部には、段曲輪があり、その一番上に立派な石碑が立っています。こちらは、「竹迫城跡公園」となっていました。

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