模擬天守
木付氏は宗家大友氏滅亡に殉じて自刃し、17代344年間の統治の幕を閉じた
別名
臥牛城・勝山城・台山城
所在地
大分県杵築市杵築城山16-1
形状
平山城
現状・遺構等
現状:城山公園
遺構等:模擬天守、石垣、堀、曲輪、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆(武家屋敷等、城下町は含まず)
訪城日
1993/06/19
2006/07/27
歴史等
大友氏2代・親秀の六男・親重は、建長2年(1250)、鎌倉幕府から、豊後国速見郡武者所として、
八坂郷木付荘に封ぜられ7千石を領し、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城した。城は竹ノ尾城と呼ばれた。木付城の起源である。
木付氏4代・頼直は、時勢の変遷や港湾の埋没などの理由により、応永元年(1394)、海と断崖に囲まれた要害堅固の台地(城山)
に移築した。
16代木付鎮直の時代、天正14年(1586)に島津家久の大軍が攻め寄せるが、鎮直は籠城の末、天正15年(1587)
2月22日これを撃退した。以来、勝山城といわれるようになった。
それから6年後の文禄2年(1593)に宗家大友義統(よしむね)は、朝鮮の役で豊臣秀吉の怒りにふれ大友氏は滅亡する。
義統の軍に従った木付氏17代統直は帰国の途中、門司の浦でこれを聞き自刃入水した。この悲報は、
木付城中の父鎮直に届き鎮直夫妻はともども城内で自害した。文禄2年(1593)6月25日、ここに木付氏17代,
344年間にわたる統治の幕は閉じた。
その後、前田玄以・杉原長房・細川忠興・小笠原忠知と、藩主の交代相継ぎ、正保2年(1645)には松平(能見)
英親が豊後高田から3万7千石で入封し、明治まで松平氏が12代にわたって居城した。その間、松平3代藩主重休のときの正徳2年(1712)
、徳川6代将軍家宣下賜の朱印状に「木付」の文字が「杵築」と書き違えられていた。そこで、幕府に伺いをたてたのち「杵築」
と書くことになった。
『パンフレットより』
現況・登城記・感想等
13年ぶりの杵築城への登城である。今回は、杵築城の前の城「竹ノ尾城」へもと思ったが分からなかった。
模擬天守の是否はともかく、丘の下や北台武家屋敷・勘定場の坂上から見る天守は、なかなか風情がある。また、
天守閣からの眺望も実に素晴らしく、周りを海や川、そして断崖に囲まれ、30mほどのそれほど高い山ではないが、
要害堅固な城であったのがよく分かる。
そして北台武家屋敷へも行ってみたが、歳月が醸し出した魅力であろうか、崩れかけそうな土塀がなんとも云えない風合いを見せていた。一方、
昔を偲ばせるようにきれいに修築された建物等々も、また不思議な魅力を放っていた。
(2006/07/27登城して)
ギャラリー
三の丸跡
運動広場と小公園になっている。また、石造物が170余基集められている(市指定文化財)
二の丸へ入る模擬城門
模擬天守
天守閣からの眺望
天守閣からの眺望は実に素晴らしく、周りを海や川、そして断崖に囲まれ、
30mほどのそれほど高い山ではないが、要害堅固な城であったのがよく分かる。
【武家屋敷】
歳月が醸し出した魅力であろうか、崩れかけそうな土塀がなんとも云えない風合いを見せていた。一方、
昔を偲ばせるようにきれいに修築された建物等々も、また不思議な魅力を放っていた。
大原邸
大原家は家老上席を努めた家である。この建物は、
杵築藩の分家で支領であった松平家のものという。草葺の屋根が昔の面影を残し、実に風情がある。
藩校・学習館の門
杵築藩校学習館の正門で、藩主御成りの門でもある。天明5年(1758)7代藩主親賢の設立によるもので、
藩の定紋雪笹の瓦を用い、現在残る門の中で最も規模が大きく格調高い。
北台武家屋敷・勘定場の坂上から見る天守①
北台武家屋敷・勘定場の坂上から見る天守②