豊後 臼杵城(臼杵市)

大手門跡付近から臼杵城址を仰ぎ見る

大友宗麟が天険の要害の島に築城した壮大な海城

別名

亀城、巨亀城、金亀城

所在地

大分県臼杵市臼杵

形状

平山城(海城)

現状・遺構等

【現状】 臼杵公園(本丸、二の丸)
【遺構等】 現存(畳櫓、卯寅櫓)、復元(大門櫓)、石垣、堀(水堀、空堀)、曲輪跡、櫓台、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2006/07/28

歴史等

現在は、臼杵市市街地東部の丹生島台地となっているが、この台地はもともと臼杵湾に突き出たような形の島であり、四方は潮の洗う岸壁という天険の要害であった。わずかに西側に陸続きの部分があったが、その部分は切り落として橋が架けられていたらしい。
この島を城郭としたのは、キリシタン大名として有名な大友宗麟である。宗麟はすでに弘治年間(1555~1558)から同地に居館を設けており、その後、永禄5年(1562)に本格的な城が築かれた。
天正14年(1586)、九州制覇を目指す島津氏が大友氏本国の豊後へ侵入すし、10月には、島津義弘が肥後境から、島津家久が日向境から豊後に入り、12月には、家久の大軍によって臼杵城は包囲された。島津軍は臼杵の町を焼き払い、臼杵城を攻撃したが、堅固なこの海城を落とすことはできなかった。臼杵城に籠城した宗麟は、「国崩し」と名付けられた大砲二門をもって島津軍に応戦したという。
翌年には豊臣秀吉が島津征伐軍を九州へ派遣し」、4月になって島津軍は撤退した。しかし、宗麟はこの籠城が体にこたえたのか、隠居地の津久見に戻った数日後の5月3日、その生涯を閉じた。
大友氏の後、福原直高、太田一吉と城主が代わり、慶長5年(1600)からは、稲葉貞通が臼杵城主として入府し、明治4年(1871)の廃藩置県を迎えるまで、稲葉氏が城主として臼杵城を治めた。
『参照:日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、現地説明板』」

現況・登城記・感想等

かつての海城も今では周りが全て埋め立てられ、平山城となっている。
大手門跡から優美な曲線を描く石垣群が見える。そして手前には古橋と亭櫓台の石垣、左上には時鐘櫓台石垣、正面上には大門櫓、右上には畳櫓が見え、その素晴らしさにいっときの間見とれていた。
古橋を渡って鐙坂に出る。鐙坂は幾重にも曲がりくねった感じが、まさに登城道を想わせ嬉しくなってくる。登りきると現存の畳櫓に出る。さらに大門櫓をくぐると二の丸に出る。二の丸は相当な広さである。さらに奥に歩いて行き空堀を渡ると、本丸である。本丸もかなりの広さである。本丸の東南隅には現存の卯寅口門脇櫓があり、卯寅口櫓跡に稲荷神社が祀られている。本丸東にある亀首櫓跡からの眺望は、眼下に臼杵の町並み、その向こうに海が見えなかなかのものである。
それにしても、臼杵城址がこんなに大規模で、しかも櫓・櫓台や石垣や曲輪跡等々の遺構がこれほど残っているとは想像していなかった。これほどの城址であり、しかも大友宗麟による築城という歴史を持ちながら、資料館がないのは本当に勿体ない。素晴らしい城址で感激した。
また、如何にも城下町らしい雰囲気のある町を散歩するのもいいと思う。(2006/07/28登城して)

ギャラリー

臼杵城縄張図(現地案内板より)
臼杵城縄張り

城下から仰ぎ見る畳櫓(現存)
畳櫓を真下(往時は海岸)から見上げたものです。臼杵城を目指して来ると、まずこの光景が見えてくるが、まさに絶壁で迫力満点です。 これを見た時点で、満足度★★★★★です(笑)。
01畳櫓を見上げる 

亭櫓台
畳櫓の下から大手口へ廻って行くと、まず亭櫓台石垣が見えて来ます、なかなか立派な石垣です。
亭櫓台

大手脇から古橋と時鐘櫓台石垣を
大手口へ出ると水堀に架かっている古橋が見えて来ます。上の方には時鐘櫓台石垣が見えます。櫓台から右へと続く扇型にアークを描く石垣が何ともかっこいいです。尚、残念ながら、大手門周辺は消滅し、道路になっています。
05古橋と時鐘櫓石垣

大手門跡あたりから臼杵城大手全景を
折角の素晴らしい臼杵城の光景ですが、やたらと張り巡らされた電線がどうにも邪魔です。当城の全景は、どこから撮っても電線が入ってしまうようですヽ(`⌒´)ノ。
写真は、左石垣が時鐘櫓台、中央上が大門(復興)、右が畳櫓、右下石垣が亭櫓台、中央下に古橋です。
03臼杵城全景

大手から登城
古橋を渡って登城です(*^_^*)。
07登城

鐙坂へ
古橋を渡り、すぐ左へと入る道があります。
09鐙坂入口

鐙坂(堀底道)
岩盤を削り取ってU字形に廻っている堀底道を進んで行きます。風情のある道で嬉しくなってきます♪♪♪ 正面上に見えるのは畳櫓です。
11鐙坂

鐙坂を見下ろす
鐙坂を登り切ってから振り返って写真を撮りました。改めて、その凄さに脱帽です。 
13鐙坂を 

畳櫓(現存)
現存建造物は、この畳櫓と卯寅口門脇櫓の2基だけです。
15畳櫓

大門(復元)
大門櫓は、稲葉氏入城後の17世紀初頭に建てられたが、宝暦13年(1763)の大火で焼失した後、明和5年(1768)に再興され明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容を誇っていた。平成13年(2001)復元された。
17大門

会所櫓台
大門から入ると、左側に会所櫓台石垣が見えます。小さい櫓台ですが、ここからの眺望は素晴らしいです。とはいえ、写真を撮り忘れました(汗)。
19会所櫓跡

二の丸跡 
二の丸は、大変な広さです。 
20二の丸跡

義太夫前櫓跡
21義太夫前櫓跡

武具櫓前の空堀
23武具櫓前の空堀

武具櫓跡
24武具櫓跡

本丸と二の丸(屋敷)間の空堀
この空堀は良好に残っていますが、往時は水堀だったのかもと思いましたが?? 尚、写真右奥に天守台があったらしいのですが、気が付かずに通過してしまいました✩⃛*ෆʃᵕ ॢᴗ ॢᵕ)꒡◡꒡*ƪෆ*✩⃛。
25本丸二の丸間の空堀

本丸跡
27本丸跡

卯寅稲荷、㊨卯寅稲荷と卯寅口門脇櫓(現存)
永禄5年(1562)大友宗麟が築城の際、卯寅口は鬼門にあたるため外郭岸上に城の地主、丹生島明神として祭られたのがはじまりだそうです。明治6年廃城のとき、現在の卯寅櫓跡に移され、卯寅稲荷大明神として信仰されているそうです。
33卯寅稲荷

卯寅口門脇櫓
城内に畳櫓とともに、2つしか残っていない櫓なのに、解体修理中で見ることが出来ませんでした(泣)。
34卯寅口門脇櫓

亀首櫓跡からの眺望
海雲櫓跡とこの亀首櫓跡辺りからの眺望だけが、500mほどのところに海が見え、僅かに往時の海城の姿を偲ばせてくれるかな?
37亀首櫓跡からの眺望

海雲櫓跡
39海雲櫓跡

着見櫓跡 
43着見櫓跡

城下町「臼杵」
城下町らしい雰囲気の町並みで少し歩いてみたかったが、残念がら時間がなく諦めました。
DSC02045 

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