日向 月山日和城(都城市)

模擬天守(高城郷土資料館)

日向3高城の一つ、伊東氏と島津氏が争奪戦を繰り返した城

別名

高城、三俣院兼重本城

所在地

宮崎県都城市高城町大井手

形状

平山城

現状・遺構等

現状:高城郷土資料館
遺構等:模擬天守、曲輪、土塁、空堀、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2006/07/29

歴史等

日和城(ひわんじょう)は元弘年間(1331~34)に、肝付兼重(かねしげ)が築いたもので、当時は「三俣院兼重本城」と云われた。 兼重はこの城を根拠として、南朝方から受けた錦の御旗をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦ったが、延元4年(1339)8月27日、 力尽き落城し、兼重は高山(現・鹿児島県肝属郡肝付町、旧高山町)へ退いた。
その後は、日向守護職の畠山直顕(ただあき)のものとなり、「高城」と呼ばれ、「月山日和城」とも云われた。 畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となったが、明応4年(1495)伊東氏との飫肥・三俣の交換によって、 伊東氏のものとなった。
その後、都城の北郷忠相 (ただすけ)は、天文3年(1534)伊東氏を追い払って、ここを居城とした。戦国期の終わりには伊集院の領有となり、「※ 庄内の乱」では、この城下で激戦が繰り返された。乱後、 また北郷氏のものとなったが、元和元年(1615)一国一城令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となった。
城の構えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀に仕切られた8城郭からなり、約4ヘクタールの広さである。
伊東八外城時代にはここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、 扇形の雄大な構えであった。
『現地説明板、パンフレット他参照』


【庄内の乱】
 「庄内の乱」は関ヶ原の合戦の前年の1599年3月9日、 朝鮮出兵から帰国したばかりの島津忠恒が、石田三成と結び庄内を領としていた老中伊集院幸侃を、伏見の屋敷で誅したことに端発する。
伊集院幸侃の子忠真は、その報に接するや、庄内12城を固め、都城に籠城し激しく抗した。 しかし翌年、徳川家康の調停により平定され、1600年3月15日、島津忠恒とその叔父で第17代薩摩藩主島津義久は都城に入城した。 そして庄内は、元来ここを本領としていた北郷家に安堵され、伊集院忠真は鹿児島の開聞岳の麓、頴娃に移された。

【日向3高城】
高城(宮崎県木城町)、高岡城(宮崎市高岡町)、月山日和城

現況・登城記・感想等

都城郊外の田園地帯の小高い丘の上に模擬天守(高城郷土資料館)が見える。模擬天守の是非はともかく、 この郷土資料館には地元の沢山の子供が学習のために来館していて、よく利用されていていいなと感心した。
それほど高い丘の上にあるわけではないが、天守閣の上からの眺望は素晴らしく、360度全てが遠くまで見渡せることができ、 霧島連山や開聞岳がよく見える。
ただ、せっかく天守閣まで造るのなら、各曲輪跡の案内板等も設置してくれたらありがたいのに。
(2006/07/29登城して)

ギャラリー

月山日和城(8城郭の図)
月山日和城 八城郭の図

登城道
かなり高い切岸で、急な崖になっている。
月山日和城 登城道

模擬天守閣(高城歴史資料館)
模擬とはいいながら青空のもとの天守は、やはりいいものだと思う。

月山日和城 模擬天守

天守からの眺望(ズームアップして撮影)
霧島連山を望む                     開聞岳を望む
月山日和城 天守から霧島連山を  月山日和城 天守から開聞岳を望む

真城
天守の建てられているのが本城とすると、隣のこの曲輪跡は真城か?
月山日和城

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